鹿児島旅行記 三日目(2019/09/07)


朝食前に、西郷隆盛や大久保利通、東郷平八郎など、
多くの著名人を輩出した加治屋町周辺を散策。


 
■山本権兵衛誕生地
  山本権兵衛は、薩英戦争や戊辰戦争に従軍。
  その後、海軍操練所、海軍兵学寮などに入って
  海軍軍人としての道を歩み始めました。
  
  日清戦争の時に海軍大臣副官となり、
  明治31年(1898年)、山縣内閣の海軍大臣になると、
  ロシア海軍に勝つために様々な施策を行いました。

  日露戦争の際には、当時無名であった
  東郷平八郎を連合艦隊司令長官に異例の大抜擢。
  東郷率いる連合艦隊はバルチック艦隊を撃破し、
  日露戦争を勝利に導くことになりました。

  大正2年(1913年)、総理大臣に就任しますが、
  翌年、シーメンス事件の責任を取って辞職。
  大正12年(1923年)9月、再び総理大臣になりますが、
  虎ノ門事件により、わずか4ヶ月で辞職しました。


 
「山本権兵衛誕生之地」の石碑の隣には
山本権兵衛の甥で海軍大将を務めた
「山本英輔誕生之地」の石碑が並んでいます

■東郷平八郎誕生地
  東郷平八郎は薩英戦争や戊辰戦争に参加し、
  維新後はイギリスに留学して
  海軍士官としての経験を積みました。

  日清戦争では「浪速」艦長となり、
  豊島沖海戦や黄海海戦などに参戦。
  その後、海軍大学校長、常備艦隊司令長官、
  舞鶴鎮守府司令長官などを歴任し、
  日露戦争前に連合艦隊司令長官に就任しました。

  日露戦争では旗艦「三笠」に乗艦し、
  旅順港封鎖作戦や日本海海戦など作戦全般を指揮。
  日本海海戦では、当時世界最強と言われた
  バルチック艦隊を完全に壊滅させました。
  それまで日本の軍事力を二流以下とみなしていた
  欧米列強は日本の勝利に驚嘆し、
  東郷は名将として広く知られることとなりました。

  日露戦争後に現役を退きましたが、
  その後も長きにわたって日本の軍政に関わり、
  昭和期になっても大きな影響力を持ち続けました。
  最終階級は元帥海軍大将。


■大山巌誕生地
  大山巌は西郷隆盛の従弟。
  江戸で砲術を学び、戊辰戦争では
  砲兵隊長として優れた功績を挙げました。

  維新後は渡欧して普仏戦争などを視察。
  西南戦争では旅団司令長官として西郷軍と戦い、
  田原坂、城山攻防戦などで勝利に貢献しました。

  明治13年(1880年)、陸軍卿に就任。
  以降、陸軍内部の薩閥の首領の地位を占め、
  長州の山縣有朋とともに陸軍を二分しました。

  明治18年(1885年)、初代陸軍大臣に就任。
  日清戦争では第二軍司令官、
  日露戦争では満州軍総司令官を務め、
  ともに日本の勝利に大きく貢献。
  同郷の東郷平八郎と並んで、
  「陸の大山、海の東郷」と言われました。
  最終階級は元帥陸軍大将。


■村田新八誕生地
  村田新八は年少のころから西郷隆盛を慕い、
  その薫陶を十分に受けました。

  文久2年(1862年)、寺田屋騒動を煽動したと
  島津久光公から疑われ、喜界島に遠島。
  元治元年(1864年)に赦免されると、
  西郷を助けて王政復古運動に挺身。
  薩長同盟締結にも尽力しました。

  戊辰戦争では二番小隊長として先鋒隊を率い、
  上野戦争や会津戦争などで活躍。

  明治4年(1871年)、西郷の推挙で宮内大丞となり、
  岩倉遣外使節団に随行して欧米を視察。
  明治7年(1874年)に帰国した新八は、
  征韓論政変で西郷が下野して帰郷したのを聞くと、
  自らも職を辞して鹿児島に帰りました。

  鹿児島では桐野利秋・篠原国幹らと私学校を創立、
  砲隊学校・章典学校の監督に就任。
  西南戦争では二番大隊長として各所で奮戦しますが、
  城山で最後の抵抗を遂げた後、自決。享年42。

  勝海舟は「大久保利通に次ぐ傑物なり」と評し、
  新八の死を惜しんだそうです。


■吉井友実誕生地
  吉井友実は西郷隆盛・大久保利通らを始めとする
  精忠組の中心人物として藩政をリードし、
  尊王討幕運動を推進しました。

  元治元年(1864年)の禁門の変では長州藩を迎撃。
  第一次長州征討で西郷が征長総督・徳川慶勝公に
  長州処分を委任された際には、西郷・税所篤と
  3人で長州に乗り込み、戦後処理に努めました。

  慶応3年(1867年)には土佐藩勤王派との
  連携工作に当たり、薩土討幕密約を締結。

  維新後は宮内大丞、宮内少輔などを歴任し、
  宮中の改革に尽力。
  明治6年(1873年)の政変では大久保に協力し、
  西郷と袂を分かちました。

  明治15年(1882年)、日本鉄道社長に就任。
  明治17年、宮内大輔に任命され宮中に復帰、
  明治19年には宮内次官に任命されました。


 
■西郷隆盛・西郷従道誕生地
  西郷隆盛は薩摩藩の下級武士でしたが、
  藩主・島津斉彬公に取り立てられ御庭方役に抜擢。
  江戸で斉彬公から政治的手ほどきを受け、
  将軍継嗣問題で一橋慶喜公擁立運動に奮闘しました。

  安政5年(1858年)、斉彬公の死に絶望して
  入水自殺を図りますが運良く蘇生。
  藩は幕吏に追われていた隆盛を隠すために
  奄美大島で潜居させました。

  文久2年(1862年)、藩より召還されますが、
  島津久光公を激怒させ、今度は沖永良部島へ遠島。
  元治元年(1864年)に赦免され帰藩。

  その後、藩政の主導権を握り、討幕へ藩論を統一。
  慶応2年(1866年)、薩長同盟を締結しました。
  戊辰戦争では東征大総督府参謀に就任、
  旧幕府軍を撃退して江戸城無血開城を実現しました。

  明治新政府では参議となり、
  廃藩置県などの改革を断行しますが、
  明治6年(1873年)、征韓論に敗れて下野。

  帰郷後は私学校で教育に専念しますが、
  明治10年(1877年)、私学校生徒に促されて挙兵。
  新政府軍と戦いましたが敗北(西南戦争)し、
  鹿児島の城山で自刃しました。享年51。


  西郷従道は西郷隆盛の実弟。
  隆盛の影響で尊王攘夷運動に参加しました。

  戊辰戦争に従軍後、新政府に出仕。
  明治2年(1869年)には兵制調査研究のため、
  山縣有朋と渡欧しました。
  帰国後、兵部権大丞、陸軍少将などを歴任。
  明治6年(1873年)、隆盛が政変で下野し、
  薩摩藩出身者の多くが隆盛に従い帰郷しますが、
  従道は政府に留まることを選択しました。

  明治7年(1874年)、陸軍中将となり、
  政府の中止命令を無視して台湾出兵を強行。
  隆盛が西南戦争を起こした際には、
  従道は隆盛に加担せず政府に残留しました。

  その後、文部卿、陸軍卿、農商務卿などを歴任。
  内閣制度発足で初代海軍大臣に任命されると、
  日本海軍を日清・日露の戦勝に導きました。
  最終階級は元帥海軍大将。
西郷隆盛誕生地
「西郷隆盛君誕生之地」碑の敷地の片隅に
小さな「西郷従道誕生之地」の石碑があります


■大久保利通誕生地
  大久保利通は、西郷隆盛とともに
  薩摩藩下級武士集団の中心人物でした。

  島津久光公の引き立てにより藩政の中枢へ進出し、
  公家の岩倉具視らとともに公武合体運動に尽力。
  朝廷を中心とした政治体制に変革しようとしましたが、
  徳川慶喜公との政局に敗れ、武力倒幕路線へ転換。

  朝廷より討幕の密勅を得ることに成功しますが、
  慶喜公が大政奉還を果たしたため、
  岩倉らとともに王政復古の大号令を発しました。
  
  新政府成立後は参議に就任し、木戸孝允らと
  版籍奉還や廃藩置県などを断行。
  明治4年(1871年)には大蔵卿に就任し、
  岩倉遣外使節団の副使として外遊しました。

  明治6年(1873年)、
  初代内務卿に就任して政府の実権を握ると、
  学制や地租改正、徴兵令、殖産興業など、
  近代産業国家としての基盤を整備する政策を断行。
  その近代化・欧化政策に旧士族層の怨嗟を買い、
  石川県士族により暗殺されました。享年49。


■井上良馨誕生地
  井上良馨は、幕末から明治の武士、海軍軍人。

  薩英戦争で艦砲射撃を受けて重傷を負った際、
  イギリス海軍の破壊力と機動力に魅了され、
  完治と同時に陸軍から海軍に転向。
  戊辰戦争では藩の軍艦「春日丸」に乗船し、
  阿波沖海戦、宮古湾海戦、箱館戦争に参加しました。
  
  明治維新後は海軍士官となり、明治8年(1875年)の
  江華島事件では「雲揚」艦長として勝利しました。
  明治10年(1877年)の西南戦争では、
  国産第一号艦「清輝」艦長として海上輸送を行い、
  翌年には「清輝」でヨーロッパを訪問。
  日本人だけの初めて欧州巡航を成功させました。

  その後、軍政官として軍務局長、常備艦隊司令長官、
  海軍参謀部長、横須賀鎮守府司令長官などを歴任。
  明治34年(1901年)、海軍大将となり、
  明治44年に、海軍では3人目となる元帥となりました。


■西郷南洲翁宅地跡
  西郷隆盛が江戸で働いている安政2年(1855年)、
  生活に困窮した西郷家は加治屋町の家を売却し、
  この上之園の地に移り住みました。

  明治2年(1869年)に武家屋敷に移るまで、
  この地で十数年過ごしました。
  イト夫人と生活をしたのもこの地のようです。
 
大久保利通誕生地
「維新の三傑」と称され、
近代国家の礎を築いた人物にもかかわらず
小さな石碑がひっそりと立っているだけです

井上良馨誕生地

西郷南洲翁宅地跡


1時間くらい散策してホテルに戻り、朝食を食べました。


■朝食
  ホテル提携の「タリーズコーヒー レム鹿児島店」にて
  朝食セット。

  「ホットドッグプレート」、「トーストプレート」、
  「パンケーキプレート」の3種類から選べましたが、
  「パンケーキプレート」を選択。

  おいしくいただきました。


今日は桜島を経由して、大隅半島を観光します。

まず、鹿児島港(桜島フェリーターミナル)から
桜島フェリーに乗って桜島を目指します。


■桜島フェリー
  鹿児島港と桜島港との間を結ぶ
  鹿児島市船舶局運営の公営フェリー。
  昭和9年(1934年)運航開始。

  船舶5隻を保有し、1日140便の24時間運航。
  年間乗客約520万人、航送車両約153万台と
  世界屈指の輸送量を誇っています。

  桜島地域と鹿児島市街地のみならず、
  薩摩・大隅両半島を結ぶ海上交通機関として
  重要な役割・使命を担い、
  鹿児島が世界に誇る自然の観光資源である
  桜島へのアクセスとして、
  鹿児島市の観光振興にも寄与しています。


桜島到着後、「道の駅 桜島」に立ち寄り。
おみやげなどをチェック。
さらに「桜島小みかんソフト」を食べました。
桜島フェリーより桜島を望む


桜島小みかんソフト
■有村溶岩展望所
  大正3年(1914年)の噴火によって流れ出た
  大正溶岩原の小高い丘に作られた展望所。

  現在も活動を続ける南岳の火口に
  最も近い所にある展望所で、
  一面を覆う溶岩原と、その上に根を張るクロマツが
  非日常の景色を作り出しています。

  ここから眺める桜島は、
  見慣れた横長の桜島とは違った円錐型。
  複数の山からなる複合火山・桜島は、
  見る場所によって全くその姿が変わります。

  ちなみに、 大河ドラマ「西郷どん」で
  鈴木亮平さんが躍動感のあるジャンプをしている
  メインビジュアルの撮影場所がこの地にあります。
「西郷どん」メインビジュアル風アングル
左下の岩がポイントです
山頂に雲がかかっているのが残念
有村溶岩展望所から桜島(南岳)を望む


■昼食
  鹿屋市にある「みなと食堂」。
  鹿屋市漁協直営の食堂で、
  女性組合員を中心としたスタッフで
  運営されています。

  日本有数の生産量を誇る「かのやカンパチ」と
  近海で獲れたエビを中心に、新鮮さと価格、
  ボリュームを重視したお店です。

  「かんぱち漬け丼」を注文。
  味噌汁、漬物のほかに「あら煮」が付いています。

  とてもおいしかったです。
かんぱち漬け丼


あら煮

■雄川の滝
  大隅半島南部を流れる雄川の上流にある滝。
  落差46m、幅60m。

  天気が良いと滝壺はエメラルドグリーンに輝き、
  柱状節理が連なる岩肌のあちこちからは
  伏流水が流れ出ています。

  滝の上流には水力発電所の取水口があり、
  通常は水量が少ないのですが、水量が多い時は
  エメラルドグリーンの滝壺を見ることができません。

  駐車場から滝壺までは約1.2kmの遊歩道があり、
  渓流の音に癒されながら自然と一体になれる
  癒しのスポットです。

  大河ドラマ「西郷どん」のオープニング映像にも
  使われました。
天気が悪く水量も多かったため
エメラルドグリーンの滝壺は見られず(涙)
柱状節理の間から伏流水が流れ出ています



暑い中を往復2.4km歩いて喉が渇いたので、
駐車場脇にあるカフェ「aqua base cafe」でブレイク。
地元産辺塚だいだいとサツマイモのシュークリーム、
地元産パッションフルーツスカッシュ、
地元産辺塚だいだいスカッシュ



見た目が可愛いシュークリーム
サツマイモの餡とだいだいの果汁入り
ホイップクリームが二層になっています
■諏訪神社
  御祭神は、
  建御名方命(たけみなかたのみこと)、
  事代主命(ことしろぬしのみこと)。
  いずれも大国主命(おおくにぬしのみこと)の子供。

  横に二基並んだ「並立鳥居」は全国的にも珍しく,、
  縁結びにご利益があると言われているそうです。

  明応4年(1495年)、小根占郷の総社として
  信州諏訪神社より分霊を勧請奉斎した際、
  境内に上宮と下宮を並立して造営(※)。
  その際、鳥居も並立して造営されました。

  その後、鳥居は並立のまま建て替えが続きましたが、
  社殿は上社と下社を統合した一つの建物になり、
  現在に至っています。

   ※現在、信州にある諏訪大社は一社ですが、
     明治までは諏訪神社上社と諏訪神社下社が
     別の神社でした。


■西郷南洲翁宿所
  根占(現南大隅町)にある、
  西郷隆盛が狩猟の際に宿泊していた家。
  南大隅町指定文化財。

  明治6年(1873年)、下野して薩摩に帰った西郷は、
  薩摩各地の野山に出かけて狩猟をしたり、
  温泉で保養しながら余生を送っていました。

  根占にもたびたび訪れて猟を楽しみ、
  雨の日など狩猟に行けない日は、詩を詠み、
  書を書いて過ごしました。

  3年余りの後の明治10年(1877年)、
  西郷は鹿児島城下の私学校生が城下の弾薬庫を
  襲撃したとの知らせをこの家で受けます。
  西郷は「ちょ、しもた!」(しまった!)と言い、
  鹿児島に向かったと言われます。
  その後、西南戦争が勃発し、
  ここが西郷最後の保養の地となりました。

  現在はガラス窓・瓦葺となっていますが、
  本屋は宿泊当時そのままです。
  敷地内には、西郷使用の石風呂・手水鉢が
  残っています。


■薩英戦争砲台跡
  江戸時代末期に築かれた砲台。
  南大隅町指定文化財。

  錦江湾の防衛のために設置されましたが、
  設置当時は大砲1門を備えるだけの
  小規模な砲台でした。

  文久2年(1862年)の生麦事件後、
  イギリス艦隊来攻に備えて拡幅工事が行われ、
  現在の姿となりました。
  敵の砲撃から兵士や大砲を守る胸壁、
  火薬を保管する煙硝倉が建設されましたが、
  実際にイギリス艦隊との交戦はありませんでした。

  花崗岩の胸壁は長さ約60m、高さ約2mあり、
  砲門部分の凹部が2ヶ所残っています。
  薩英戦争の際、錦江湾沿岸に
  数十の台場が構築されましたが、
  原型をはっきり留めているのはここだけです。
復元された大砲


■神川大滝公園
  高さ25m、幅30mの神川大滝を擁する
  神ノ川を挟んで造られた自然公園。
  大小の吊り橋や、林間広場、遊具、親水広場など、
  自然の雄大さに触れることができます。
  高さ68m、長さ130mの虹の吊橋・大滝橋からは
  神川大滝を真下に鑑賞することもできます。
  周辺には6つの滝があり、
  神ノ川七滝伝説が伝えられています。

時間の都合上、神川小滝(落差15m)だけを見ました(右画像→)



これにて本日の観光は終了。
本日の宿泊地、宮崎県日南市に向かいます。
距離は約90km。



 
■夕食
  日南市にある「日南館本館」。
  居酒屋「塚田農場」などを展開するAPカンパニーが、
  宮崎地鶏「地頭鶏(じとっこ)」の自社養鶏場を
  運営する日南市に開業したお店。
  築40年の古民家を改装した
  日南素材地産地消をコンセプトとしたお店です。


  注文したのは下記のとおり。

  ・若鶏の月見つくね
    つくねに合う若鶏を吟味し、手ごねで作られました
  ・じとっこ焼き
    炭の香りが一体となったジューシーな逸品
  ・地頭鶏刺身盛合せ
    宮崎の甘醤油とおろしニンニクでいただきます
  ・ささみ柚子胡椒串
    地頭鶏のささみを柚子胡椒でいただきます
  ・手羽唐揚げ
    秘伝のタレにたっぷりと漬け込んだ手羽
  ・肉巻プレーン
    宮崎名物「肉巻きおにぎり」
  ・日南の天麩羅
    魚の旨味にあふれた究極の「つけあげ」

  デザートは
  ・自家製プリン
  ・日向夏ソルベ


  どの料理もとてもおいしかったです。
若鶏の月見つくね
じとっこ焼き

地頭鶏刺身盛合せ

ささみ柚子胡椒串

手羽唐揚げ

肉巻プレーン

日南の天麩羅

自家製プリン


日向夏ソルベ

■本日のお宿
  「日南海岸南郷プリンスホテル」。
  明るく開放的な雰囲気に包まれたリゾートホテル。
  客室、レストラン、ラウンジ、露天風呂、
  全てがオーシャンビューです。
  客室のバルコニーから雄大な海や島々が一望でき、
  太平洋を染める美しい日の出も見ることができます。
翌朝撮影



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