宮島・山口旅行記 三日目(2017/09/23)


朝食前に旅館周辺を散策、
幕末の志士たちの史跡などを巡りました。


 
■松島剛蔵旧宅地
  松島剛蔵は小田村伊之助の兄。
  幕末の藩医、西洋兵学者。

  江戸で西洋医学を学び、
  世子である毛利元徳公の侍医となりました。

  その後、長崎で航海術を学び、
  帰藩して洋学所・軍艦教授所を創立。
  長州藩初の洋式軍艦「丙辰丸」が製造されると
  初代海軍総督となり、下関戦争を指揮しました。

  藩の軍制改革に大きな役割を果たしましたが、
  尊皇攘夷および倒幕派であったため、
  俗論派が藩政権を握ると投獄され、
  処刑されました。享年40。


 
■品川弥二郎誕生地
  足軽・品川弥市右衛門の長男。
  松下村塾に学び、吉田松陰没後は
  高杉晋作らと尊皇攘夷運動に参加しました。

  戊辰戦争においては、
  岩倉具視から錦旗調製を委嘱され、
  戦争が始まると奥羽鎮撫使総督参謀として
  各地を転戦しました。

  明治維新後は
  政府高官としてヨーロッパ諸国に滞在。
  帰国後は内務少輔、農商務大輔などを歴任。
  信用組合や産業組合の設立にも貢献しました。


 

■井上勝旧宅跡
  井上勝は幕末の長州藩士、
  明治期の鉄道官僚、鉄道技術者。

  文久3年(1863年)、長州藩の5人の留学生
  (長州ファイブ)の一人としてイギリスに密航し、
  ロンドン大学で鉄道や鉱山の技術を学びました。

  明治元年(1868年)に帰国し、
  明治4年(1871年)に鉱山頭兼鉄道頭に就任。
  翌年には鉄道頭専任となり、
  東京~横浜間の鉄道敷設に尽力しました。

  京都~大津間の敷設では自身が技師長となり、
  初めて日本人だけで工事を完成させました。
  
  工部大輔や鉄道庁長官などを歴任するなど
  日本の鉄道の発展に尽力し、
  「鉄道の父」と呼ばれています。


 
■入江九一・野村靖誕生地
  入江九一・野村靖は中間・野村家の
  長男・三男としてこの地に生まれ、
  ともに松下村塾に入門しました。

  兄・入江九一は松下村塾の四天王と言われ、
  尊皇攘夷運動に奔走。
  高杉晋作の奇兵隊創設にも加わりました。
  禁門の変では参謀として戦いましたが、
  重傷を負い自決。享年28。

  弟・野村靖も尊皇攘夷運動に奔走し、
  四境戦争などで活躍。
  明治4年(1871年)には岩倉使節団に加わり、
  欧米各国を視察。
  帰国後は神奈川県令や内務大臣、
  逓信大臣などを歴任しました。


 
■周布政之助旧宅地
  周布政之助は幕末の長州藩士。
  この場所には安政6年(1859年)から
  数年住んだといわれています。

  政務役など要職を歴任し、
  財政再建や軍制改革、殖産興業など
  藩政改革に尽力。
  開国の時代に備え、、
  伊藤博文ら5人(長州ファイブ)を
  イギリスに密航留学させました。

  一方で、桂小五郎や高杉晋作らを
  藩の中枢に登用しましたが、
  俗論派に藩政の実権を奪われ、
  その責任を取り自刃。享年42。


 
■奥平家長屋門
  中級武士として大組(300石)に属していた
  奥平家の表門。
  萩市指定有形文化財。  

  桁行約28m、梁間約5m。
  寄棟造桟瓦葺き。
  建築年代は技法などからみて、
  19世紀初頭のものとされています。

  中央からやや南寄りに幅約4mの通路があり、
  通路の南側(画像手前)に3室と土間・板の間、
  通路の北側には床や仏壇構えのある部屋など
  9室と土間および縁があります。


 

■松浦松洞誕生地
  松陰神社の正門向かいにあります。

  松浦松洞は魚商人の家に生まれました。
  幼い頃から絵が得意で、
  現在残っている吉田松陰の肖像画は
  松洞が描いたものです。

  20歳で松下村塾に入塾し、尊皇攘夷運動に参加。
  公武合体論を主張する長州藩士・長井雅楽の
  暗殺を計画します。
  しかし、翻意を促されて断念し、自刃。
  享年26。


 

■吉田稔麿誕生地
  吉田稔麿は大組中間・吉田清内の
  長男として誕生。
  幼い頃からお経を覚えるくらいの
  神童でしたが、身分が低いため
  藩校明倫館で学ぶことができませんでした。

  学問が好きだった稔麿は松下村塾に入塾。
  松門四天王の一人と称され、
  松陰にも可愛がられた門下生の一人でした。

  松陰の死後は遺志を受け継ぐべく
  尊皇攘夷運動に奔走、奇兵隊にも参加しました。

  元治元年(1864年)の池田屋事件で
  新選組と奮闘の末に討死。享年24。
  (自刃ともいれわています)


 
1時間くらい散策して旅館に戻りました。


■朝食
  夕食と同じ「旬の丸」。
  「萩の朝ごはん」をイメージした
  県内の地元食材や地元料理、
  萩本陣オリジナル料理を中心としたビュッフェ。

  地元食材や地元料理を中心に
  和食でいただきました。


奥左から萩瀬つきあじハンバーグ、萩特産のっぺい、こんにゃく白和え
中央左から萩特産むつみ豚肉じゃが、だし巻き玉子、
萩特産お魚コロッケと山口特産ふく一夜干し
手前左から萩沖産鯖味醂干し、萩特産わかめ蒲鉾、萩特産けんちょう

ごはんは山口県産こしひかりです。

萩特産夏みかんジュースも付けました。



チェックアウト後、
まずは旅館近くの松陰神社に向かいます。

松陰神社境内には社殿のほか、
松下村塾や吉田松陰幽囚ノ旧宅、
宝物殿「至誠館」などがあります。


最初の鳥居をくぐり、
少し進むと左手に松下村塾があります。
■松下村塾
  幕末期に吉田松陰が主宰した私塾。
  世界文化遺産、国指定史跡。

  建物は木造瓦葺き平屋建ての小舎。
  当初からあった八畳の一室と
  塾生が増えたため松陰と塾生が増築した
  十畳半の部分からなっています。

  天保13年(1842年)に松陰の叔父である
  玉木文之進が自宅で私塾を開いたのが始まり。
  松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継承し、
  安政4年(1857年)松陰がこれを継承しました。
  
  藩校明倫館は士分と認められた者しか
  入学できませんでしたが、
  松下村塾は町民・農民などの身分にとらわれず
  塾生として受け入れました。

  講義内容は儒学・兵学・史学などを始めとした
  広範な学問でした。
  松陰は一方的に講義をすることはなく、
  塾生の意見を聞くなどして対話を重んじ、
  各人の個性や能力、可能性を引き出しました。
  
  松陰が教えた期間はわずか1年余りでしたが、
  双璧と呼ばれる高杉晋作や久坂玄瑞のほか、
  伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎など、
  明治維新の原動力となり、
  明治新政府に活躍した多くの逸材を育てました。
最初の鳥居


松陰が家族に宛てた遺書の中で詠った和歌が彫られた石碑
「親思ふこころにまさる親ごごろ けふの音づれ何ときくらん」
(松下村塾の手前にあります)





講義室だった八畳の部屋には松陰の肖像画と石膏像があります

増築した十畳半の部分


■吉田松陰幽囚ノ旧宅
  吉田松陰の実家である杉家の旧宅。
  木造瓦葺き平屋建て、大小12室に
  板の間、物置、土間もある広さ214㎡の建物。
  世界文化遺産、国指定史跡。

  松陰はペリー再来航の際に密航に失敗、
  江戸伝馬町の牢に捕らえられ、
  その後、萩に送られて野山獄に投獄されました。

  翌年、釈放。
  松陰の父・杉百合之助預けとなり、
  実家にある三畳半の一室に謹慎して
  読書と著述に専念しました。

  松陰は家族からの薦めもあり
  幽囚室で孟子や武教全書などを講じるようになり、
  やがて松下村塾を主宰するようになりました。
三畳半の幽囚室

さらに進むと社殿があります。


■松陰神社
  御祭神:吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰)

  明治23年(1890年)、
  松陰の実家である杉家により
  私祠として松下村塾の西側に
  土蔵造りの小祠が建立されたのが始まり。

  明治40年(1907年)、松下村塾出身の
  伊藤博文と野村靖が中心となって
  この小祠を公の神社として創建しようと請願し、
  創建が許可されました。

  現在の社殿は昭和30年(1955年)に完成。
  創建当時の土蔵造りの旧社殿は
  松下村塾の門人を祀る末社・松門神社と
  なっています。


  吉田松陰は幕末の長州藩士、思想家、教育者。
  通称は寅次郎。

  藩士・杉百合之助の次男として生まれ、
  5歳で山鹿流兵学師範の叔父・吉田大助の
  養子となりました。

  幼少時から叔父・玉木文之進の
  厳しい指導を受け、
  10歳から藩校明倫館で山鹿流兵学を教授。
  11歳で藩主・毛利敬親公へ御前講義を行い、
  その出来栄えが見事であったことにより、
  その才能が認められました。

  嘉永3年(1850年)、21歳の時に
  西洋兵学を学ぶために九州へ遊学。
  その後、江戸に出て
  佐久間象山から砲術・蘭学を学びました。

  嘉永7年(1854年)、ペリーが浦賀に再来航すると
  同郷の足軽・金子重之輔と密航を図りますが、
  乗船を拒否されて失敗。
  下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄。
  その後、萩に送還されて野山獄に投獄されました。
  翌年、出獄を許されましたが杉家で幽閉。

  安政4年(1857年)には
  杉家の敷地に松下村塾を開塾し、
  高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋ら
  多くの人材を育てました。

  安政5年(1858年)、幕府が無勅許で
  日米修好通商条約を締結したことを知り、
  老中・間部詮勝暗殺を画策すると
  藩に危険視され、再度、野山獄に投獄。

  翌年、安政の大獄が行われると、
  江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄、
  斬首刑に処されました。享年30。


参拝の後は宝物館へ。

社殿前の鳥居


拝殿


本殿




■松陰神社宝物殿「至誠館」
  松陰の貴重な遺墨や遺品類などを展示し、
  松陰の思いを現代に伝えています。
  松陰が処刑される前日に書き遺した
  門下生への遺書「留魂録」も展示されています。


宝物館鑑賞後、境内にある二つの石碑を見て、
松陰神社を後にしました。
石碑「明治維新胎動之地」
昭和43年(1968年)、明治維新100年を記念して建立
萩は近代日本の原動力となった人物を数多く輩出しており、
明治維新の胎動となった地であることを示しています
石碑「薩長土連合密議之處」
石碑「明治維新胎動之地」と同じく昭和43年に建立
文久2年(1862年)、土佐藩の坂本龍馬、薩摩藩の田上藤七、
長州藩の久坂玄瑞がこのあたりにあった宿屋にて一堂に会し、
日本の将来を語り合った場所

■伊藤博文旧宅
  木造茅葺き平屋建て、広さ約89㎡。
  生け垣に囲まれた質素な建物です。
  国指定史跡。
  旧宅横には伊藤博文の像が建っています。

  伊藤博文は明治期の政治家。
  現在の山口県光市の農家に長男として生まれ、
  9歳のときに萩に移住。
  安政4年(1857年)、14歳の時に
  父親が中間・伊藤直右衛門の養子となったため、
  一家でこの旧宅に居住することになり、
  その後、明治元年(1868年)に
  兵庫県知事に赴任するまで本拠となった家です。

  17歳で松下村塾に入塾し、尊皇攘夷運動に参加。
  文久3年(1863年)には
  長州ファイブの一人としてイギリスに留学。
  帰国後は高杉晋作らと挙兵して
  藩の主導権を握りました。

  明治維新後は参与、兵庫県知事などを歴任。
  岩倉使節団では副使として欧米諸国を視察。
  帰国後は近代的な内閣制度の創設、
  大日本帝国憲法の起草・制定に尽力しました。

  明治18年(1885年)、初代内閣総理大臣に就任。
  日露戦争後に初代韓国総監となりますが、
  明治42年(1909年)、枢密院議長として
  満州訪問の途上、ハルビン駅頭で狙撃され、
  69歳でこの世を去りました。


■伊藤博文別邸
  伊藤博文旧宅の隣りにあります。

  博文が明治40年(1907年)に
  現在の東京都品川区に建てたもので、
  車寄せを持つ玄関の奥に、
  中庭を挟んで向って右に西洋館、左に書院を配し、
  その奥に離れ座敷、台所、風呂及び蔵を備えた
  広大なものでした。

  この地には往時の面影をよく残す一部の玄関、
  大広間、離れ座敷の3棟が移築されています。
伊藤博文旧宅
茅葺きの屋根は改修作業中でした


旧宅横にある萩焼で作られたほぼ等身大の像


伊藤博文別邸


大広間


■玉木文之進旧宅
  松下村塾の創立者であり、
  吉田松陰の叔父である玉木文之進の旧宅。

  建物は木造茅葺き平屋建て、
  八畳の座敷、四畳の畳部屋、三畳半の玄関、
  四畳半の板間と土間の台所があり、
  別に湯殿・便所があります。

  玉木文之進は幕末の長州藩士、教育者。
  30代初めに松下村塾を開いて
  少年期の吉田松陰を厳しく教育しました。

  その後、藩校明倫館の都講や代官、
  郡奉行などを務め、
  明治維新後は松下村塾を再開しました。

  明治9年(1876年)、萩の乱に
  一族および門下生が多数参加したことから、
  責任をとって自刃。享年66。


■吉田松陰誕生地
  萩市内を一望できる「団子岩」とよばれる
  高台にあります。
  萩市指定史跡。

  吉田松陰は、天保元年(1830年)に
  家禄26石の藩士・杉百合之助の次男として
  この地で誕生しました。

  この地は松陰が家族とともに松本村清水口
  (現在の松陰神社境内)へ転居する
  19歳まで過ごした場所で、
  両親や兄弟とともに農耕に従事し、
  父から漢籍の素読などを受けた場所です。

   家の間取りは玄関三畳、表座敷六畳、
  居間六畳、 隠居部屋三畳、納戸三畳、台所、
  それに別棟の納屋と厩という
  非常に狭く簡素な造りでした
 現存の建物はありませんが、
大正時代に設置された間取りを示す敷石があります

産湯の井戸

萩市内が一望できます

誕生之地碑
揮毫は山縣有朋


吉田松陰と金子重之輔の像
下田海岸でペリー艦隊を望見する姿を表しています


■吉田松陰墓所
  松陰誕生地に隣接しています。
  萩市指定史跡。

  生家の杉家では松陰の没後100ヶ日にあたる
  万延元年(1860年)2月7日に百ヶ忌を営み、
  吉田家墓地に遺髪を埋葬しました。
  そして同月15日に墓碑を建立。

  墓前の水盤や花立は、久坂玄瑞や高杉晋作ら
  門人17人と妹たちが寄進したものです。

  この墓所には杉家、吉田家、玉木家、
  久坂家一族のほか高杉晋作らの墓もあります。
吉田松陰のお墓

高杉晋作のお墓


久坂玄瑞のお墓


■萩反射炉
  反射炉は西洋で開発された金属溶解炉。
  遺構が現存するのは
  萩と韮山(静岡県)の2ヶ所だけであるため、
  わが国の産業技術史上
  たいへん貴重な遺跡とされています。
  世界文化遺産、国指定史跡。

  アヘン戦争や黒船来航によって
  海防強化の必要性を感じた長州藩は、
  西洋式の鉄製大砲を鋳造するために必要な
  反射炉の導入を計画しました。

  長州藩は反射炉の操業に成功していた
  佐賀藩に藩士を派遣し、
  鋳造法伝授を申し入れますが拒絶され、
  反射炉のスケッチのみを許されました。

  そのスケッチをもとに試行錯誤の末に
  安政3年(1856年)に造られたのが、
  この反射炉でした。

  ただ、本格的な操業の記録が無いことから、
  この反射炉は試験炉であり、
  本式の反射炉(実用炉)は築造されなかった
  との説が有力視されています。

  現存している遺構は煙突部で高さ10.5m。
  上部の一部が煉瓦積み、
  その下が安山岩と赤土で造られており、
  往時は石積みは漆喰で塗られていたと
  されています。

■恵美須ヶ鼻造船所跡
  幕末に長州藩が洋式帆船を建造した造船所跡。
  当時のままの大規模な防波堤が現存しています。
  世界文化遺産、国指定史跡。

  江戸時代初期、軍艦などの建造を禁止する
  大船建造禁止令が制定されました。
  しかし、嘉永6年(1853年)、ペリー来航によって、
  欧米諸国の脅威を感じた幕府は禁止令を解禁、
  翌年、長州藩に軍艦の建造を要請しました。

  安政3年(1856年)、この地に造船所を開設。
  ロシアの造船術で建造された
  長州藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」が進水。

  万延元年(1860年)には
  オランダの造船術が用いられた
  2隻目の洋式軍艦「庚申丸」が進水しました。
現存する防波堤



■野山獄跡
  藩政時代の牢獄跡。
  士分の者が収容されていました。
  萩市指定史跡。

  野山獄は、独居房6室の棟が
  中庭を挟んで2棟向かい合って建っていました。
  独居房は三畳ほどの広さで、
  寝具や机、筆記用具なども置くことができました。

  また、囚人どうしの交流や
  親族からの食べ物の差し入れも
  制限がありませんでした。

  投獄された吉田松陰は、
  仲間の囚人たちに孟子の講義をするとともに
  自らも俳諧や書を学びました。
  また、獄吏でさえも廊下で松陰の講義に
  耳を傾けたといわれています。


■岩倉獄跡
  野山獄の向かい側にあります。
  岩倉獄には庶民を収容し、
  囚人の待遇にも大きな差をつけていました。
  萩市指定史跡。

  吉田松陰と共に海外密航に失敗した
  金子重之輔は足軽のため
  岩倉獄に投獄されました。

  岩倉獄は下牢ということもあり、
  環境が劣悪で
  入牢した者への扱いもひどかったため、
  体調を崩した金子重之輔は
  十分な手当ても受けられず獄死しました。
野山獄跡

岩倉獄跡


■堀内鍵曲
  鍵曲(かいまがり)は左右を高い土塀で囲み、
  道を鍵の手(直角)に曲げた独特な道筋。
  敵を迷わせ、あるいは追いつめやすいように
  工夫して造られたものです。

  堀内地区は藩政時代の城内三の丸にあたり、
  藩の諸役所や、毛利一門、永代家老、寄組
  といった大身の武家屋敷が並んでいた場所。

  城下町特有の街路の姿を残し、
  昔のままの萩らしい風情を残す閑静な場所として
  見どころのひとつになっています。

■平安古鍵曲
  藩政時代、
  堀内地区に屋敷を構えていた重臣たちは、
  堀内が手狭になったことから
  新たに平安古地区に下屋敷を求めました。

  その重臣たちの屋敷を守るために造られた
  この平安古鍵曲は、堀内地区の鍵曲とともに、
  城下町特有の街路の姿を残しています。
  夏蜜柑が実る季節になると、
  土塀の上から黄色の果実がのぞく風景は、
  萩ならではの景観となっています。


■萩城跡
  日本100名城のひとつ。
  国指定史跡。

  長州藩藩祖・毛利輝元公が
  慶長9年(1604年)に指月山麓に築城。
  このため、指月城とも呼ばれています。

  山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と
  山頂にある山城(詰丸)で構成されていました。

  高さ14.5mの五層の天守がありましたが、
  廃城令により、明治7年(1874年)に
  天守や櫓、本丸御殿などの建物は全て破却され、
  石垣や堀の一部が現存するのみとなっています。
背後の山が指月山

毛利輝元公像

二の丸南門跡

天守台

破却前に撮影された天守

本丸門跡


東門跡(左:時打櫓跡、右:東櫓跡)


■昼食
  萩のブランド肉「むつみ豚」を食べるために
  「ふるさと家族」へ。
  定食はほとんどのメニューが1,000円以下、
  揚げ物・煮物・焼き物など豊富な品揃えの店です。

  「むつみ豚トンカツ定食」を注文。
  数量限定のメニューです。

  トンカツは厚みがあり、サイズも大。
  衣がサクサクで脂身も甘く、
  とてもおいしかったです。


  食後は萩おみやげ博物館に行き、
  夏みかんソフトを食べました。
ふるさと家族

むつみ豚トンカツ定食


夏みかんソフト


■旧湯川家屋敷
  藍場川の最も上流にあり、
  藩政時代には「樋番(水門の番人)」として、
  藍場川の水の管理していた武家屋敷。
  萩市指定史跡。

  この屋敷の特徴は、
  川の水を屋敷内に引き入れて
  流水式の池泉庭園を造り、
  池から出た水を家の中に作られた「ハトバ」や
  風呂場で家庭用水として使った後、
  再び川に戻していることです。

  このように藍場川沿いの屋敷では
  川の流れを利用した家の作りを見ることができます。
屋敷には橋を渡って入ります

屋敷内に川の水を引き込んである空間「ハトバ」
野菜や食器を洗えるようにしてあります

藍場川には錦鯉がたくさん泳いでいました→

■桂太郎旧宅
  明治維新後、3回にわたって
  内閣総理大臣を務めた桂太郎の旧宅。
  明治42年(1909年)築。

  玄関、二畳の玄関の間、四畳半の表座敷、
  四畳の次の間、六畳の奥座敷と土間があり、
  規模も比較的小さく、こじんまりとした屋敷です。
  座敷前には、藍場川の水を引き込んで造られた
  流水式の池泉庭園があります。

  桂太郎は幕末の長州藩士、
  明治期の軍人、政治家。

  戊辰戦争では奥羽地方鎮撫総督の参謀となり、
  明治以後は陸軍に入り、山縣有朋を補佐して
  陸軍の軍制改革を行いました。

  第3次伊藤内閣などで陸軍大臣を務め、
  その後、内閣総理大臣を3回務めました。


これにて萩の観光は終了。
西方面に向かいます。


■千畳敷
  日本海に面した向津具半島付け根部分の
  標高333mの高台に広がる草原。
  広さ約26,400㎡。

  眼下には日本海に浮かぶ島々、
  果てしなく広がる海と空の大パノラマが展開し、
  爽やかな風が波のざわめきを伝えます。

  ハマユウ、ツツジ、ツバキなどが植えられて
  四季折々の花が高原の一角を染め、
  夏の夜には日本海に浮かぶ漁火を
  望むことができます。

  この一帯では常時強風が吹いているため、
  風力発電用の風車が複数設置されています。


■元乃隅稲成神社
  島根県津和野町の太皷谷稲成神社から
  分霊された神社。
  「稲荷」神社は全国で四万社ほどありますが、
  「稲成」神社は太皷谷とここの二社のみです。

  昭和30年(1955年)、
  地元の網元・岡村さんの枕元に白狐が現れ、
  「これまで漁をしてこられたのは誰のおかげか」
  と過去からの関わりを詳細に述べた後、
  「吾をこの地に鎮祭せよ」という
  お告げがあったことにより建立されました。

  昭和62年から10年間かけて奉納された
  123基の鳥居が並ぶ景色が圧巻で、
  アメリカのニュース専門放送局・CNNが
  発表した「日本の最も美しい場所31選」の
  ひとつに選ばれています。
中央右の大きな鳥居が参道入口

参道入口

拝殿



■角島大橋
  山口県北西部にある角島と本州間にある
  海士ヶ瀬戸に架かる橋。
  平成5年着工、平成12年開通。
  全長:1,780m。幅員:6.5m。橋脚:28基。

  かつて角島へは渡船による交通が主でしたが、
  この橋の完成により陸路でつながりました。

  エメラルドグリーンの海をまたぎ、
  景観と調和した雄姿は、
  西長門海岸地域随一の景勝地として
  人気の観光スポットになっています。
  また、数多くのテレビCMのロケ地としても
  採用されています。

橋を一往復しました




これにて本日の観光は終了。
本日の宿泊地、下関に向かいます。


■本日のお宿
  「東京第一ホテル下関」。
  下関市の中心に位置し、
  高杉晋作や伊藤博文らが集まった
  「大坂屋」跡地に建つ歴史を感じられるホテル。

  大坂屋は赤間関(下関の古称)の
  稲荷町にあった町最大の妓楼で、
  江戸時代から明治時代にかけて、
  全国にその名が知られていました。

  幕末には高杉晋作や伊藤博文をはじめ、
  全国から多くの志士が集まり、
  薩摩藩・西郷隆盛と長州藩・高杉晋作も
  ここで会談したといわれています。


東京第一ホテル下関

ふく・長州料理「KATSUMOTO」
■夕食
  ふく・長州料理「KATSUMOTO」。
  創業約40年。
  ふぐ料理・くじら料理などを中心に、
  ランチ・宴会・仕出し料理などを提供しています。

  料理はとらふくのミニコース。
  煮こごり、刺身、唐揚、にぎり、小鍋のコースです。

  どれもおいしかったのですが、
  唐揚が一番良かったです。
煮こごり

刺身

唐揚

にぎり 小鍋



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