宮島・山口旅行記 二日目(2017/09/22)


■朝食
  ホテル1階の朝食コーナーでビュッフェ。
  「Balance Morning」をコンセプトに、
  ヘルシー感のあるメニューが用意されています。


今日の観光は秋芳洞から。

8:30ちょっと前に駐車場に到着。
秋芳洞入口(正面入り口)まではちょっと距離があり、
道の両側にお土産屋さんが立ち並んでいます。

私たち以外人影がなく、
開始時刻を間違えたのかと不安になりましたが、
8:30に入場券売り場に着くと、
「おめでとうございます。一番乗りです。」
と言われました。

洞内に入ってからも
しばらくの間は誰も来なかったので、
貸し切り状態で鑑賞できました。


■秋芳洞
  秋吉台の地下100~200mにある鍾乳洞。
  岩手県の龍泉洞、高知県の龍河洞と並ぶ
  「日本三大鍾乳洞」のひとつで、
  国の特別天然記念物に指定されています。
  
  総延長は約10kmに及ぶと推定され、
  そのうち約1kmが観光コースとなっています。

  約3億5千万年前~2億2千万年前に誕生した
  サンゴ礁が地殻変動によって陸地化し、
  石灰化したサンゴ礁が地下水などに溶け
  洞窟となったものです。

  洞内には石灰華段丘、鍾乳石、石筍、
  石灰柱などが発達し、
  百枚皿、傘づくし、黄金柱など多くの奇観を
  見ることができます。
秋芳洞入口
百枚皿
水に溶けた石灰分が沈殿して皿のようになった石灰華段丘
皿の数は500枚以上。大きなものは直径4m
青天井
入口近くにある高さ約25m、幅約35mの大きな空間
外からの光が川に反射して
天井が青く見えることから名付けられました

百枚皿

洞内富士
堆積した礫層の上に石灰分を含んだ水が流出
礫層を覆いつくすように固まったもの
南瓜岩

大松茸

笣柿(すぼがき)
笣柿とは藁納豆のような笣(すぼ)を作って
中に柿を入れて軒下に吊るしたもの
蓬莱山


千町田

傘づくし
1mほどの細長い鍾乳石が天井から垂れ下がっています

ライオン岩

大黒柱
天井を支えているかのような石柱
鍾乳石と石筍がつながったもの
千畳敷
幅80m、長さ175m、高低差35m
日本第2位(現存では第1位)の巨大な洞内空間
空滝


黄金柱
秋芳洞のシンボル
高さ15m、幅4mの石灰華柱
天井の割れ目から流れ出る地下水に含まれた石灰分が
何万年もの時間をかけて岩肌に付着したもの

岩屋観音

蘇鉄岩

猿すべり

石灰華の滝

巌窟王

龍の抜け穴

クラゲの滝のぼり

五月雨御殿



マリア観音から進むと黒谷口があります。

通常、黒谷口からバスやタクシーで
正面入口に戻る方が多いと思うのですが、
バスは平日なので運休、
タクシーは朝早いのでいないと思い、
洞内を折り返して正面入口に戻りました。


秋芳洞を出て、
秋吉台展望台に向かいます。



■秋吉台
  美祢市に広がる日本最大のカルスト台地。
  総面積は約54平方キロメートル。
  国の特別天然記念物に指定されています。

  地表には無数の石灰岩柱と
  多数のドリーネ(すり鉢穴)が広がり、
  地下には秋芳洞、大正洞、景清穴など、
  400を超える鍾乳洞があります。

  秋吉台は約3.5億年前、
  暖かい太平洋上で珊瑚礁として誕生しました。

  その珊瑚礁が長い年月をかけて
  海洋プレートの上をゆっくり移動し、
  やがて大陸のプレートにくっついて
  押し上げられることで秋吉台になりました。

  その後、数100万年前頃から
  石灰岩が雨水や地下水によって溶け始め、
  ドリーネや鍾乳洞ができました。
マリア観音

秋吉台展望台よりカルスト台地を望む
無数の石灰岩? 全然見えませんが・・・
6月以降は草丈が伸びてしまい、石灰岩が隠れてしまうそうです(涙)
カルストロードをしばらく走ると、それらしい風景を見ることができました


続いて萩に向かいます。


■道の駅「萩往還」
  萩城下の玄関口にあります。
  幕末の思想家・教育者である
  吉田松陰について学べる
  「松陰記念館」を併設しており、
  入口には高杉晋作や久坂玄瑞など
  松下村塾の塾生と松陰の銅像があります。

  松陰記念館には、
  松陰が旅した後を光の道で示す日本地図や
  松下村塾を再現したコーナーなどがあります。
松下村塾を再現したコーナー

高杉晋作(左)、吉田松陰(中央)、久坂玄瑞(右)

山縣有朋(左)、木戸孝允(中央)、伊藤博文(右)

品川弥二郎(左)、山田顕義(右)


天野清三郎(左)、野村和作(右)
■涙松跡
  萩城下から山口・防府へと通じる萩往還
  (藩主御成街道)にある松並木跡。
  国指定史跡「萩往還」に含まれています。

  江戸時代、萩を出発してここを過ぎると
  萩の町が見えなくなってしまうため、
  ここが城下を見ることができる
  最後の見納めの地でした。
  
  萩を出発した者は
  松並木の間に見え隠れする萩を見返り、
  別れを惜しんで涙し、
  萩に帰ってきた者は
  嬉しくて涙を流したということから
  「涙松」と呼ばれるようになりました。

  安政の大獄により
  江戸に送られることとなった吉田松陰は
  二度と故郷に帰ることができないと覚悟し、
   「かえらじと思いさだめし旅なれば、
    一入(ひとしほ)ぬるる涙松かな」
  と、この地で詠んでいます。


いよいよ萩市街地に入ります。

まずは昼食。
道の駅「萩しーまーと」へ。


■昼食
  「萩しーまーと」にある「浜料理がんがん」。
  萩沖の魚介類をふんだんに使った海鮮丼や寿司、
  刺身定食などが中心の和風海鮮料理店。
  萩しーまーと内の市場で買った魚介を持ち込んで
  好みの料理に仕上げてもらうことも可能です。

  萩名産のうにと剣先いかを食べます。
  「萩生うに丼」と「泳ぎいか刺身」に
  白ごはんのセットを付けました。
  妻とシェアです。
  剣先いかのゲソは天ぷらにしてもらえます。

  剣先いかは直前まで水槽で泳いでいたもの。
  新鮮で身が透き通っています。
  
  生うには口でトロける感じで、とても甘かったです。

  新鮮な萩の魚介を堪能しました。
萩生うに丼

泳ぎいか刺身

ゲソの天ぷらと白ごはんのセット



満腹になったところで、観光に戻ります。

まずは萩市街中心部にある萩・明倫学舎へ。


■萩・明倫学舎
  旧藩校明倫館跡地に建ち、
  平成26年3月まで授業が行われていた
  日本最大の木造校舎・旧明倫小学校を改修整備し、
  平成29年3月4日にオープンした施設。

  旧萩藩校明倫館展示室、
  世界遺産「明治日本の産業革命遺産」を紹介する
  「世界遺産ビジターセンター」や
  幕末の歴史をひもとく貴重な資料を一堂に紹介する
  「幕末ミュージアム」などがあります。

  藩校明倫館は、享保3年(1718年)に
  長州藩5代藩主・毛利吉元公が
  萩城三の丸に建てたのがはじまり。

  約130年後の嘉永2年(1849年)に
  14代藩主・毛利敬親公が現在地に移転し、
  規模を拡大しました。

  宣聖殿と呼ばれた聖廟を中心に、
  西側に学問習得のための建物、
  東側に剣術・槍術・射術などの武芸修練場、
  後方に水練池、北方に練兵場が設けられました。

  水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、
  日本三大学府の一つと称され、
  吉田松陰や小田村伊之助も教鞭をとりました。
南門(萩市指定有形文化財)
明倫館の正門
藩主が聖廟を拝する春秋の「釈菜(孔子祭)」や
公式行事以外は開かれませんでした
観徳門(萩市指定有形文化財)
孔子を祀った聖廟の前門
南門と聖廟との中間に位置していました
有備館(国指定史跡)
剣術場と槍術場
藩士の練武のほか、他藩からの剣槍術の
修業者との試合も行われていました



有備館の剣術場
■江戸屋横町
  萩城の外堀から外側に広がる城下町は、
  町筋は碁盤目状に区画され、
  武家屋敷や商家が軒を連ねていました。
  現在でも町筋はそのままに残り、
  往時の面影をとどめています。

  東西にのびる御成道に面して藩の豪商、
  江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んでいたため、
  御成道から南へ入る三つの横町には
  それぞれの名が残されています。

  江戸屋横町には木戸孝允の旧宅や、
  蘭方医・青木周弼の旧宅、
  高杉晋作・伊藤博文ゆかりの円政寺などが並び、
  黒板塀の風情ある横町となっています。


■青木周弼旧宅
  13代藩主・毛利敬親公の侍医を務めた
  青木周弼が生まれ育った屋敷。
  安政6年(1859年)に建てられたものですが、
  あまり改造されていないため
  当時の様子をよく残しています。

  青木周弼は日本屈指の蘭学医。
  藩医・能美洞庵に入門して漢方医学を学んだ後、
  大阪に遊学して蘭学を修めました。
  その後、江戸で蘭医学を学び、
  長崎に遊学した際にはシーボルトに師事しました。

  藩医となってからは
  藩の医学館(好生堂)の創設に尽力し、
  多くの弟子を育てあげました。

  幼少の頃の高杉晋作の天然痘治療にあたり、
  一命をとりとめたというエピソードが残っています。


■木戸孝允旧宅
  江戸屋横町にある木戸孝允(桂小五郎)の生家。
  国指定史跡。
  
  当時としては珍しい木造桟瓦葺き2階建ての家で、
  孝允が誕生した部屋など12もの部屋があります。
  勉強部屋には少年時代の手習いの書や
  写真などが展示されています。

  木戸孝允は幕末の長州藩士、明治期の政治家。
  藩校明倫館で吉田松陰に兵学を学び、
  その後、江戸で剣術の免許皆伝を得て
  剣豪の名を天下に轟かせました。

  江戸では多くの志士たちと交流しながら、
  藩の尊皇攘夷派のリーダーへと成長。
  藩庁政務座の最高責任者になってからは、
  薩長同盟締結や四境戦争(第二次長州征討)
  などに尽力しました。

  明治新政府では総裁局顧問となり、
  五箇条の御誓文の起草に参画、
  版籍奉還や廃藩置県などを推進しました。

  明治4年(1871年)には
  岩倉遣外使節団に副使として参加、
  その後、文部卿、内務卿など
  政府の要職を歴任しましたが、
  西南戦争の最中に45歳で病死しました。

  西郷隆盛、大久保利通とともに
  「維新の三傑」と呼ばれています。
座敷
掛け軸には七・八歳頃の孝允の手習いの書


仏間
掛け軸には十一歳頃の孝允の手習いの書


■伊勢屋横町
  菊屋横丁・江戸屋横丁とともに
  国指定史跡「萩城城下町」に含まれる小路。

  御成道に面して呉服商・伊勢屋があったことから
  この名が付けられました。

  元禄の頃には絹織場があり、
  絹機の職人を置いたことから絹機屋町とも
  呼ばれていました。

  伊勢屋横町には、
  萩出身で初代群馬県令となった楫取素彦が
  12歳の時に養子となった小田村家がありました。



■旧久保田家住宅
  江戸時代後期に御成道に面して建てられた町屋。
  萩市指定有形文化財。

  近江から萩に移って呉服商を開いた久保田家は
  二代目から酒造業に転じ、
  明治時代には名士の宿所としても利用されました。

  現在、厨子二階をもつ母屋、土蔵、離れが
  残っています。

  幕末から明治前期にかけての建物として
  意匠・構造など当時の建築技術を良く伝えており、
  国指定史跡萩城城下町を構成する
  極めて重要な建物です。


■菊屋家住宅
  菊屋家は毛利輝元公の萩入国に従い、
  山口から移ってきた藩の御用商人。
  大年寄格に任命され、
  萩城下の街造りに尽力しました。

  建物は江戸時代初期に建築され、
  現存する商家としては最古の部類に属する
  きわめて貴重なものです。

  5,470m²という広い敷地内には
  なまこ壁の蔵が立ち並び、
  主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が
  国の重要文化財に指定されています。

  瓦葺き切妻造りの主屋は広い座敷をもち、
  度々、幕府巡見使の宿として
  本陣にあてられていました。

  各部屋には藩主からの拝領品や古書、
  民具、衣装など約500点が展示されています。
書院

主屋座敷

御成門



■菊屋横丁
  国指定史跡「萩城城下町」の西側に位置する小路。
  豪商・菊屋家の脇を通る横丁であることから
  この名が付けられました。

  江戸時代当時の景観をよく残した
  白いなまこ壁の続く美しい横町で、
  「日本の道百選」の一つに選ばれています。

  この通り沿いには、
  幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地、
  第26代総理大臣・田中義一の誕生地があります。

■田中義一誕生地
  田中義一は明治期の軍人、政治家。

  陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業後、
  日清戦争に出征、戦後はロシアに留学しました。
  日露戦争では満州軍参謀として
  総参謀長・児玉源太郎のスタッフを務めました。

  その後、陸軍大臣・陸軍大将を経て、
  昭和2年(1927年)、金融恐慌の渦中に
  第26代内閣総理大臣に就任。

  その際、政界を退いていた高橋是清を蔵相に招いて
  支払猶予措置(モラトリアム)を実施し、  
  金融恐慌を収束させたことが
  田中内閣の大きな功績の一つになっています。


■高杉晋作誕生地
  幕末の風雲児・高杉晋作が生まれ育った家。
  当時の旧宅の一部が現存していますが、
  個人所有のため外からの見学のみとなります。

  高杉晋作は幕末の長州藩士。
  萩藩大組士・高杉小忠太の長男として生まれました。
  藩校明倫館に通う一方で松下村塾に通い、
  久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称されました。

  文久2年(1862年)、
  外国に支配される清国の上海を視察。
  現地の実情を見て危機感を抱いた晋作は、
  倒幕の考えを持つようになりました。

  文久3年(1863年)6月、身分を問わない
  我が国初の軍隊「奇兵隊」を結成。

  文久4年(1864年)12月、藩を台頭する
  俗論派(幕府を擁護する勢力)を排斥するため
  力士隊や遊撃隊などを率いて功山寺で挙兵。
  翌年3月に俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して
  藩論を倒幕に統一することに成功しました。

  慶応2年(1866年)6月の四境戦争では
  海軍総督として戦闘指揮を執り、
  長州藩を勝利に導きました。

  戦い続けた晋作は持病の肺結核が悪化し、
  慶応3年(1867年)4月、
  27歳と8ヶ月という若さでこの世を去りました。
 
産湯の井戸


誕生地碑



■高杉晋作立志像
  高杉晋作誕生地の近くにある晋作広場に
  平成22年10月に建立されました。

  銅像は、晋作が明倫館や松下村塾に通っていた
  20歳頃の凛々しい顔をイメージしており、
  珍しい髷姿で両刀を差した羽織、袴の立ち姿。

  晋作誕生地と萩城の方角を向いて建てられており、
  広場には萩名物の夏みかんや
  晋作が好きだった梅の花も植樹されています。
ここでちょっとブレイク。


JTBの萩街あるきクーポンの
ソフトドリンクのサービスを使います。

お店は「俥宿天十平」。
江戸時代の旧家をそのまま使った
ギャラリー&カフェです。

ドリンクは「夏みかんジュース」。
歩き疲れた身体にぴったりです。

おいしくいただきました。


再び観光に戻ります。
■小田村伊之助(楫取素彦)旧宅地
  小田村伊之助は幕末の長州藩士、
  (のちに藩命により楫取素彦と改名)
  明治期の官僚。

  藩医・松島瑞璠の次男として生まれ、
  12歳の時に儒者・小田村吉平の養子となりました。
  
  藩校明倫館で学び江戸に出て、
  帰国後は明倫館で儒学を教授しました。
  
  その後、吉田松陰の妹・寿と結婚。
  松陰の入獄後は後継者として、
  松下村塾でも指導にあたりました。

  四境戦争では幕府側との交渉にあたり、
  明治維新後は地方官を経て、
  初代群馬県令を10年間務めました。

  妻・寿と死別後、松陰のもう一人の妹で
  久坂玄瑞の未亡人・文(美和子)と再婚しました。


■久坂玄瑞進撃像
  具足姿に陣羽織という出で立ち。
  激動の時代に信念を持って
  進むべき道を指し示した玄瑞の姿を表現しています。

  久坂玄瑞は幕末の長州藩士。
  藩医・久坂良迪の三男として生まれました。

  藩校明倫館や松下村塾などで学び、
  松下村塾では高杉晋作と並んで
  「松門の双璧」と称されました。

  安政4年(1857年)、吉田松陰の妹・文と結婚。
  
  文久2年(1862年)の英国公使館焼き討ちや
  翌年の下関外国艦船砲撃に参加するなど、
  長州藩の尊皇攘夷運動の先頭に立って
  精力的に活動しました。

  元治元年(1864年)、禁門の変に参加。
  武力入洛には慎重論を唱えましたが、
  来島又兵衛らの進撃論に押し切られ出撃。
  一軍を指揮するうちに膝に弾丸を受け、
  鷹司邸にて寺島忠三郎と互いに刺し違えて自害。
  25歳の生涯を閉じました。


「秋の全国交通安全運動」期間中だったため、
交通安全のたすきをかけていました




■山縣有朋銅像
  久坂玄瑞進撃像と同じ萩市中央公園にあります。

  山縣有朋は明治期の軍人、政治家。
  中間(ちゅうげん:足軽以下の低い身分)・
  山縣三郎有稔の長男として生まれました。

  藩校明倫館の入学資格がなかったため、
  身分を問わない松下村塾に入門。
  
  高杉晋作が奇兵隊を創設すると直ちに入隊し、
  軍監(副将)となって四境戦争などで活躍しました。
  
  明治維新後は新政府の軍備面に精力を注ぎ、
  徴兵制を施行させるなど軍制確立に尽力。
  日清・日露両戦争では
  陸軍の最高指導者として活躍しました。

  その後、内閣総理大臣に二度就任し、
  元老として政界を支配しました。


■旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
  毛利家一門のひとつ、厚狭毛利家の武家屋敷。
  往年には約15,500㎡の広大な敷地を
  誇っていましたが、
  主屋などは明治維新後に解体され、
  現在はこの長屋のみが残っています。
  国指定重要文化財。

  安政3年(1856年)築。
  梁間5m、桁行51.5mの長大な本瓦葺き入母屋造り。
  萩に現存する武家屋敷の中でも
  最大の規模を誇ります。

  式台および縁付で、
  5つに区画された内部には土間がなく、
  畳廊下を配した格調高い造りであることから、
  身分の高い者に対して用意された
  詰所であったと思われます。


■本日のお宿
  松下村塾の近くに建つ旅館「萩本陣」。
  敷地内に源泉が湧出しており、
  萩城下町をイメージした
  城壁露天風呂や土塀露天風呂のほか、
  立ち湯、寝湯、歩行湯など14種類の湯めぐりを
  楽しむことができる湯屋街「湯の丸」があります。

  平日で空き室があったためか、
  部屋をグレードアップしていただけました。

  まずは予約しておいた貸切風呂に入り、
  その後、「湯の丸」で露天風呂などを楽しみました。


貸切風呂

■夕食
  館内の食事処「旬の丸」で
  山口県産の食材をふんだんに使った特選会席。

  けっこう種類が多かったのですが、
  とてもおいしかったので箸が進み、
  すべて残さず食べることができました。


  メニューは下記のとおり。

  <御献立>
   食前酒  :ノンアルコール梅酒
   前菜   :旬の味覚盛り
   郷土料理:いとこ煮
   造り    :本日のおすすめ
   焼物   :見蘭牛陶板焼き
   蓋物   :鯛荒焚き
   冷鉢   :季節の葛包み
   強肴   :真ふく 車海老ポワレ
   蒸物   :ふかひれ茶碗蒸し
   鍋替   :鮑踊焼き
   御飯物  :山口県産こしひかり
   留碗   :地魚清まし仕立て
   果物   :オリジナルプレート  
ノンアルコール梅酒

 
旬の味覚盛り
いとこ煮
(冠婚葬祭に欠かせない山口県の郷土料理)
本日のおすすめ造り
マグロ、タイ、イカ、ヒラサ
(山口ではヒラマサのことをヒラサと呼びます)
見蘭牛陶板焼き
(見蘭牛は萩で飼育されてきた日本在来牛「見島牛」に
ホルスタインをかけ合わせた萩のブランド牛)
地酒呑み比べを注文しました
長陽福娘(左)、長門峡(中央)、獺祭(右)
鯛荒焚き
季節の葛包み 真ふく 車海老ポワレ
(山口では「ふぐ」のことを「福」につながると
縁起をかつぎ「ふく」と呼びます)
ふかひれ茶碗蒸し 鮑踊焼き
山口県産こしひかり、地魚清まし仕立て 果物オリジナルプレート


夕食の後はSL型シャトルバスに乗って、
奥萩展望台にある足湯へ。

萩の夜景を眺めながら足湯を楽しみました。



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