会津旅行記 二日目(2014/09/21)


■朝食
  昨晩とは違う場所の囲炉裏。
  炭火で焼いた鮭が絶妙な焼き加減で
  とてもおいしかったです。
  それ以上にご飯のおいしさに感動。
  あんなにおいしいお米を食べるのは久しぶりでした。


  出発時には宿のみなさんに送り出していただきました。
  「いろりの宿 芦名」は最高のおもてなしが感じられる宿でした。
  女将さんや仲居のみなさんはとても気さくで、
  会話が楽しかったです。

  また訪れたい宿がひとつ増えました。


  今日最初の観光地、飯盛山に向かいます。


■飯盛山
  戊辰戦争で奮闘した白虎隊の自刃の地。
  白虎隊士の墓や白虎隊記念館などがあります。

  慶応4年(1868年)8月22日、藩境の母成峠が突破されると
  白虎隊の士中二番隊にも出陣が命じられます。
  白虎隊は16歳から17歳の少年たちで構成された部隊でした。
  白虎隊は戸ノ口原の戦いで勇敢に戦いましたが、
  新政府軍の兵力には力及ばず、撤退を余儀なくされます。

  戸ノ口堰洞穴をくぐりぬけ、辿り着いた飯盛山で見たものは
  城下を覆い隠す激しい炎と濛々たる黒煙でした。
  (城が焼け落ちていないことは知っていたようです)
  その時、隊士の間では城に戻り戦うか敵陣に斬り込むか
  激論が交わされました。
  彼らが選んだのは自刃。
  敵に捕らえられて生き恥をさらすより、
  潔く死を選ぶという結論でした。

  ある者は腹を割き、ある者は喉に刃を突き立てる凄惨たる光景。
  蘇生した飯沼貞吉を除き、19人が死亡しました。

  皮肉にも一人だけ生き残った飯沼貞吉によって、
  忠義の経過が語られ、広く知られるところとなりました。


  近隣には「さざえ堂」という日本では大変珍しい
  二重らせん構造の木造建築物があります。
  上りと下りで同じ道を通らずに抜けられるという仕組みで、
  国の重要文化財に指定されています。


  白虎隊記念館は、昭和31年に会津出身の弁護士、
  早川喜代次氏によって創立された史料館。
  戊辰戦争における白虎隊をはじめとする
  会津藩の悲劇を後世に正しく伝えたいという思いから、
  私財を投じて作られました。
  白虎隊以外にも戊辰戦争関係の様々な史料
  (衣服、武器、写真など)が約12,000点展示されています。


  白虎隊十九士の墓

  松平容保公弔歌の碑
  白虎隊士の殉難忠節に対し
  容保公が詠んだ弔歌を刻んだ碑
会津藩殉難烈婦の碑
戊辰戦争で自刃又は戦死した
婦女子200余名の霊を弔うために
建てられた顕彰碑

吉田伊惣次氏篤志の碑
新政府軍に埋葬を禁じられ
放置されたままの白虎隊士の屍を
見るに見かねて仮埋葬した
吉田伊惣次の篤志を称えた碑
  少年武士慰霊碑
  白虎隊以外で戦死した
  会津藩少年武士の慰霊碑


  飯沼貞吉墓所
  かつての仲間たちの墓から
  少し離れたところにあります
ローマ碑
白虎隊士の精神に深い感銘を受けた
ローマ市から昭和3年に寄贈された碑
ドイツ碑
昭和10年にドイツ大使館の外交官より
白虎隊精神を賛美して寄贈された碑
白虎隊自刃の地
ここから炎上する城下を見て
自刃を決めました
自刃の地から鶴ヶ城(中央)を望む

  さざえ堂
  (国指定重要文化財)
宇賀神社に祀られている
白虎隊十九士の霊神
戸ノ口堰洞穴
白虎隊はここをくぐりぬけて
飯盛山に辿り着きました
  さざえ堂の内部
白虎隊記念館前にある
酒井峰治と愛犬クマの像
隊からはぐれて山中を彷徨い
自刃すら考えた峰治が
クマと遭遇したときの様子を再現



あわまんじゅう   そばソフトクリーム

■旧滝沢本陣
  旧横山家住宅。
  延宝6年(1678年)建築。
  白河街道の滝沢口(滝沢峠の登り口)にあります。
  会津藩から本陣の指定を受け、
  参勤交代や領内巡視などの際の藩主の休憩所として使用されました。

  戊辰戦争の際には大本営となり、
  白虎隊もここで出陣の命を受けて、
  戸ノ口原戦場へと出陣していきました。

  茅葺き屋根の書院造りの建物は国の重要文化財に指定。
  御入御門、御座の間、御次の間などが
  当時の姿のまま残されています。
  さらに歴代藩主の愛用品、参勤交代の道具類、
  農具、食器類、古文書なども保管されています。
  建物のあちらこちらには弾痕や刀傷があり、
  戊辰戦争の痕跡をとどめています。

冠門
客人などが出入りする門
御入御門
藩主が出入りする門
  御座之間
  藩主が休息した部屋


  農具類



■御薬園(会津松平氏庭園)
  国指定名勝。
  室町時代の領主・葦名盛久が
  霊泉の湧き出たこの地に別荘を建てたのが
  始まりと言われています。

  その後、会津松平家三代藩主・正容公によって、
  大大名に相応しい池泉回遊式の山水庭園へと改造されました。
  中央に心字の池を配して亀島と楽寿亭を置き、
  東側の背炙山の連山を背景とした借景園です。

  この庭園では約400種もの薬草が育てられています。
  各種薬草を栽培する薬草園が名前の由来。
  この薬草栽培を始めたのは会津松平家二代藩主・正経公。
  領民を疫病から救うために始めた薬草栽培でした。

カルガモくん


  様々な薬草が育てられています


■天寧寺町土塁
  蒲生氏郷が会津に入部し、文禄元年(1592年)に
  若松城の改築に着手した際に築造されました。

  外郭と内郭を区画した若松城の土塁の遺構で、
  城の追手として最重要点でした。
  現存するものは大変貴重で、
  甲賀町口門跡、三の丸堀跡とともに
  城下の遺構として国の史跡に指定されました。


■昼食
  「料理旅館 田事」。
  創業80年。レトロな雰囲気の老舗料理旅館。
  郷土料理のひとつで曲げわっぱに入った「めっぱめし」が名物。
  食事のみの利用も可能です。

  人気店なので事前に予約済み。
  案内されたのは囲炉裏の席。

  私は「ひじきせいろ めっぱめし」、
  妻は「白魚せいろ めっぱめし」を注文。
  こづゆ・みそ田楽付きにしました。

  「めっぱめし」は具材がたっぷりで、味付けも良い感じ。
  ただ、ご飯は見た目より少なめです。
  できたてほっかほかで、おいしくいただきました。
  ひじきせいろ めっぱめし

白魚せいろ めっぱめし


こづゆ


  みそ田楽


■会津武家屋敷
  家老・西郷頼母邸を復元した屋敷を中心に、
  福島県指定重要文化財である旧中畑陣屋や茶室領南庵、
  藩米精米所などからなる歴史博物館。
  当時の会津武士たちの生活ぶりを知ることができます。

  38部屋ある家老屋敷では、
  各部屋に生活調度品が置かれ、
  当時の厳粛な生活の様子をろう人形を使って再現しています。

  工芸品や銘菓など豊富な会津の名産品を扱う「郷工房古今」、
  郷土料理を味わえる「九曜亭」を併設しています。
表門

式台玄関
お客様の送り迎えや
挨拶の場として使われました
  御成の間(奥)と次の間(手前)
  藩主や上級武士など
  身分の高い方々をお迎えしました
自刃の間
西郷一族21人は辞世の歌を詠み
この部屋で自刃しました
  奥一の間
  家老の寝室

藩米精米所


茶室領南庵


  旧中畑陣屋
  福島県指定重要文化財

  続いて、徒歩で山に登ります。


■小田山西軍砲陣跡
  小田山は鶴ヶ城の南東約1.6kmにある小高い山。
  標高372m。

  戊辰戦争では、城の東にあった極楽寺の僧侶が、
  この山の地形が軍事的に優れていることを新政府軍に内通。
  慶応4年(1868年)8月25日、新政府軍はこの山を占拠し、
  中腹に砲台を築きました。

  当初、砲弾は本丸まで届きませんでしたが、
  薩摩藩の大山弥助が砲射角を調整し、
  本丸まで無数の砲弾が届くようになりました。
  鍋島藩のアームストロング砲は2千数百mの射程距離があり、
  天守の壁を貫通するなど威力を発揮しました。

  会津軍も応戦して一時は砲門を沈黙させましたが、
  結局、小田山は奪還できませんでした。
  その後、城を取り囲むように配置された砲台によって
  一斉砲撃が始まったため城内は修羅場と化し、
  降伏へ向かうことになりました。


  ここらでちょっと休憩タイム。
  会津名物のひとつ「味噌田楽」を食べに行きます。
  
  鶴ヶ城(中央)を望む

■満田屋
  天保5年(1834年)創業の味噌田楽と自家製食品の店。
  会津の味噌田楽は、
  串に刺した餅や揚げ豆腐、野菜、乾魚などを
  様々な薬味を練り込んで味付けした味噌だれをつけて、
  炭火でこんがり焼いたものです。

  田楽はもともと野戦用の料理で、
  戦いに明け暮れする武士たちが持ってきた食料を
  串に刺し田や畑で焼いて食べた物といわれています。

  豆腐生揚げ、さといも、しんごろう、身欠にしん、おもちを注文。
  素朴で懐かしい味、おいしくいただきました。


豆腐生揚げ
(山椒味噌)
  さといも
  (甘味噌)

しんごろう
(じゅうねん味噌)



身欠にしん
(山椒味噌)
  おもち
  (甘味噌)

■阿弥陀寺
  鶴ヶ城の唯一の遺構 ・御三階や新選組・斎藤一の墓、
  戊辰戦争で戦死した会津藩士の墓があります。
  
  明治3年(1870年)に移築された鶴ヶ城の小天守にあたる
  御三階は鶴ヶ城の遺構として現存する唯一の建物。
  外見は三階建てですが、内部は四階建て。
  板敷きの床は歩くと音の鳴る鴬張りで、
  最上階へは引き上げ式の梯子という特殊な構造をしており、
  鶴ヶ城にあった時には秘密会議に使用されたと言われています。

  新選組三番隊隊長・斎藤一は、
  戊辰戦争の際、「会津を見捨てることはできない」と
  北へ向かった土方歳三と別れて会津に留まりました。
  戦争終結後は藤田五郎と名を変えて警視庁に勤務し、
  西南戦争で活躍します。
  72歳で往生を遂げた斎藤は、
  後半生を会津人として生きた彼の希望により、
  ここ阿弥陀寺に葬られています。

  戊辰戦争の終結後、
  城下及び近辺で戦死した会津藩士の遺骸は、
  新政府軍の命令で触れることは許されず放置されていました。
  幾度もの嘆願により、やっとその埋葬許可が下りたのは
  翌明治2年(1869年)2月。
  埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、
  ここ阿弥陀寺には、
  およそ1300柱にのぼる遺骸が埋葬されました。


  本日の観光はこれにて終了。
  宿に向かう前にちょっと一息。

  御三階

  斎藤一(藤田五郎)墓所




■駅Cafe
  JR七日町駅舎内に開設している
  会津17市町村のアンテナショップ。
  地酒の仕込み水で入れた水出しコーヒー、
  地場産フルーツジュースなどが楽しめる喫茶や
  名産品物販スペース、観光インフォメーションコーナー
  などがあります。

  野口英世ゆかりのペルーの豆を自家焙煎した
  名水水出しコーヒーを注文。
  香り高く、まろやかな味わいのコーヒーでした。

  JR七日町駅には会津鉄道の列車も乗り入れており、
  くつろいでいる間にカラフルなラッピングの
  ディーゼルカーも見ることができました。



  野口英世青春通りにある本日の宿に向かいます。



■本日のお宿
  「ホテルニューパレス」。
  昭和53年に会津で最初のシティーホテルとしてオープン。
  野口英世青春広場前にあります。

  ロビーの床には南会津産の栗の木、
  エレベーターパネルには漆を使用しており、
  会津のぬくもりを感じることができます。
  会津産こしひかり&有機野菜を使った朝食も大好評です。



  夕食までに時間があったので、
  開催中だった会津まつりの提灯行列を見物。

  提灯行列は会津まつりの始まりを告げるイベントで、
  市内16地区の子供会の皆さんが参加。
  ゆらゆらと揺れる提灯に願いを込めて、
  総勢12,000名が練り歩きます。
  9月23日には会津まつり最大のイベント「会津藩公行列」があり、
  今年は綾瀬はるかさんがゲスト参加されたようです。



■夕食
  會津郷土食と桜鍋「鶴我 会津本店」。
  会津名物の馬肉料理や会津郷土料理など
  地元で受け継がれてきた伝統の味を満喫できます。
  鶴我の馬肉は会津馬牧場より毎日入荷する
  正真正銘の会津ブランド認定馬肉です。

  以下のものを注文。

   ・鶴我名物「桜鍋(上カルビ)」
     会津独特の桜専用辛子味噌を入れ、
     すき焼き風に食べます。
     甘辛い味付けでおいしかったです。
   ・さくら刺し(極上赤身)
     一頭よりわずかしか取れない希少価値高いヒレ。
     とてもやわらかくて美味でした。
   ・鰊山椒漬け
     乾燥させた鰊を山椒の新芽とともに漬けたもの。
     酒の肴にぴったりでした。
   ・棒鱈煮
     乾燥させた棒鱈を砂糖醤油で煮込んだもの。
     懐かしさの感じられる味でした。
   ・さくらベーコン
     濃厚な味でお酒に合います。
   ・廣木酒造「飛露喜」
     廃業寸前の蔵元が生み出した会津の地酒で、
     地酒ブームの火付け役となった銘柄のひとつ
     口当たりがよく、香り豊かで飲みやすかったです。

  会津の郷土料理と地酒を堪能し、大満足の夕食でした。


  お通し

桜鍋の具材(上カルビ)

桜鍋の具材

  桜鍋

さくら刺し

鰊山椒漬け

  棒鱈煮

さくらベーコン 飛露喜



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