会津旅行記 一日目(2014/09/20)


■出発
  東京駅7:12発やまびこ123号に乗車。
  4年ぶりの東北新幹線乗車です。
  大宮を過ぎても所々に空席がありました。

  一日目は戊辰戦争における新政府軍の進撃ルートを辿ります。

  まずは白河小峰城を車窓より見学。
  修復工事のため三重櫓(天守に相当)には覆いが掛けられていました。

  慶応4年(1868年)閏4月20日に始まった白河口の戦いでは、
  白河小峰城をめぐって新政府軍と旧幕府軍(奥州越列藩同盟軍)が
  約100日間にわたる激しい攻防を繰り広げました。
  同年7月14日、旧幕府軍の撤退により戦闘終結。
  この戦いで城の大半を焼失してしまいました。
  現在の三重櫓は平成3年に再建されたものです。

  郡山駅8:33着。
  ここからはレンタカー。
  今回の車はホンダのフィットです。

  国道4号線と東北自動車道を通り、まずは二本松に向かいます。



やまびこ123号
福島駅までつばさ123号を併結します

左端に連結器が見えます

  ホンダ フィット


■二本松城跡
  別名、霞ヶ城。
  日本100名城の一つで、国の史跡に指定されています。

  嘉吉年間(1441~1443年)に奥州探題となった畠山満泰が築城。
  その後は蒲生氏郷、上杉景勝などの支城となりました。
  寛永20年(1643年)、二本松藩初代藩主・丹羽光重公が入城し、
  城郭の拡張や奥州街道の整備など城下町の建設に尽力しました。

  戊辰戦争においては、二本松藩が奥羽越列藩同盟に参加したため
  主戦場の一つとなり、新政府軍との激戦が繰り広げられました。
  しかし、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつかれ、
  慶応4年(1868年)7月29日、わずか1日の戦闘で落城、
  ほとんどの建物が焼失してしまいました。

  手薄になった攻防戦では
  二本松少年隊と呼ばれる少年兵も戦闘に加わり、
  悲劇を生むことになります。

  明治5年(1872年)には廃城令によって残った建物は全て破却。

  現在は霞ヶ城公園として整備され、昭和57年に箕輪門と附櫓が復元、
  平成5年から平成7年にかけては本丸の修復・復元が行われ、
  天守台や本丸石垣が整備されました。
  二本松少年隊群像

箕輪門と附櫓


三の丸石垣


■旧二本松藩戒石銘碑
  二本松城の東手には藩庁があり、藩士達の通用門がありました。
  その藩庁前に露出していた長さ約8.5m、最大幅約5mの自然石に
  藩政改革と綱紀粛正の指針が刻まれたものです。

  五代藩主・丹羽高寛公が、
  家臣で儒学者の岩井田昨非の献策により刻ませたもので、
  寛延2年(1749年)に完成。
  露出面の縦1.03m、横1.82mの間に、
  「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺」
  という4句16字が刻み込まれています。

  【意味】お前がお上から戴く俸禄(給料)は、民の汗と脂の結晶である。
       下々の民は虐げ易いけれども、神をあざむくことはできない。

  「お前(武士)の俸給は、
   民があぶらして働いたたまものより得ているのである。
   お前は民に感謝し、いたわらねばならない。
   この気持ちを忘れて弱い民達を虐げたりすると、
   きっと天罰があろうぞ。」と解釈されています。




■大壇口古戦場
  二本松城の南に位置する小高い丘。
  戊辰戦争における二本松少年隊奮戦の地です。
  奥州街道を北上してくる新政府軍を食い止める最後の砦でした。

  当時、二本松藩士の多くが白河口に出兵し兵力が不足していたため、
  やむなく木村銃太郎を隊長とする少年隊に出陣を命じます。
  数え年13歳から17歳までの少年達でした。

  大壇口に出陣した少年隊は25名。
  慶応4年(1868年)7月29日、進軍してきた新政府軍に対して、
  木村隊長の合図とともに少年隊士は一斉に砲撃を開始します。
  少年隊の砲撃の確実さには新政府軍も驚いたほどで、
   一弾一弾よく目標に的中したと後に新政府軍の隊将が語っています。

  善戦するも、新政府軍の兵力に退却を余儀なくされました。
  木村隊長はここで戦死、また少年隊を援護した青山助之丞・山岡栄治も
  壮烈な戦死を遂げました。

  大壇口での少年隊の戦死者8名、戦傷者5名。
  戊辰戦争史上特筆すべき一大決戦の地です。




「木村銃太郎戦死之地」碑


  少年隊の碑と二勇士の碑
(二勇士:青山助之丞、山岡栄治)


  次に、東北自動車道を郡山方面に戻って磐越自動車道に入り、
  母成グリーンラインを通って母成峠を目指します。


■母成峠古戦場
  母成峠は会津藩の藩境にあたり、戊辰戦争の激戦地となりました。

  二本松城陥落の後、新政府軍は会津への進軍を決めます。
  会津へ入るにはいくつかの街道があり、
  新政府軍の侵攻ルートを予測できない会津藩は、
  会津西街道(日光口)と勢至堂峠(白河口)、
  さらに二本松と若松を最短で結び、
  主要街道であった中山峠(二本松口)の防御を厳重に固めました。
  母成峠は一番険しい道だったため、最も可能性が低いと想定し、
  兵力を薄くしていました。

  新政府軍はその裏をかき、中山峠に陽動部隊を派遣し、
  母成峠に板垣退助・伊地知正治・谷干城らが率いる主力部隊を
  送り込みました。

  慶応4年(1868年)8月21日、
  旧幕府軍800(伝習隊、新撰組、会津・仙台・二本松藩兵)、
  新政府軍3000(薩摩・土佐・長州・佐土原・大垣・大村藩兵)の兵力で
  激闘が繰り広げられましたが、
  圧倒的な兵力及び兵器の差で旧幕府軍は壊滅的な敗北となりました。




■猪苗代城跡
  別名、亀ヶ城。
  石垣や郭、虎口の形状、土塁などの遺構がよく残っており、
  平成13年に福島県の史跡に指定されています。

  建九2年(1191年)に佐原経連が築いたと伝えられています。
  江戸時代初期の一国一城令発布の際も例外として存続が許され、
  有力家臣が城代として置かれて、
  本城である鶴ヶ城(若松城)と対をなす城として重要視されていました。

  慶応4年(1868年)8月21日、
  新政府軍が母成峠を突破して会津藩内に侵入すると、
  城代・高橋権大夫は城を守る兵力がなかったため、
  城と土津神社(会津藩祖・保科正之公を祀った神社)を焼き払って
  若松へ撤退。
  このとき、城の建物はすべて失われ、城としての役割を終えました。

  新政府軍は8月22日に猪苗代に到着すると、
  そのまま若松に向けて進軍を続けました。


  大手桝形虎口





■昼食
  猪苗代は全国有数のそばの産地。
  たくさんのそば屋の中で手打ちそば処「駅舎亭」を選択。
  大正11年(1922年)に建築された旧国鉄翁島駅舎を
  国鉄合理化の際に譲り受けて移築した建物で営業しています。
  
  ここでのそば粉は当然すべて猪苗代産。
  おすすめメニューの「祝言そば」を注文。「こづゆ」付きです。
  猪苗代一帯では、農村の質素な暮らしのなかにあって、
  祝言(結婚式)の時だけは膳にごちそうが並びました。
  この昔ながらの祝宴のメニューを忠実に再現したものです。

  ネットを見ると二八そばのようですが、短めで歯ごたえがありました。
  ダシは鶏とゴボウで取ってあり、濃厚でとてもおいしかったです。
  こづゆは薄味で口直しにちょうど良い感じでした。

ルネッサンス様式の貴賓室
皇族の方々も利用されました

祝言そば
鶏とゴボウが入っています

  こづゆ


デザートに水饅頭を食べました
器は会津塗です





  駅舎の裏手にある機関車と客車


  食事を終え、次の観光地・十六橋へ。


■十六橋
  猪苗代湖から流れ出る日橋川に架かる橋。
  現在の鉄製桁橋は五代目で、戊辰戦争当時は二代目の石桁橋でした。

  猪苗代から若松城下に入るにはこの橋を渡らなければならず、
  この橋を破壊されると水量の多い川を容易に渡ることができません。
  新政府軍はこのことを知っており、猪苗代から怒涛の如く進軍しました。

  慶応4年(1868年)8月22日夕方、
  新政府軍の川村隊が十六橋に到着すると、
  会津軍(旧幕府軍)の奇勝隊が橋の破壊に着手していましたが、
  強固な石橋は落とせていませんでした。
  川村隊は奇勝隊に向かって一斉射撃。
  奇勝隊も火縄銃やヤーゲル銃で応戦しますが、
  新政府軍のミニエー銃やスナイドル銃との力の差は歴然で、
  さらに新政府軍の後続諸隊3,000余が相次いで到着するに至り、
  後退を余儀なくされます。

  こうして十六橋を突破した新政府軍は、戸ノ口原へと兵を進めました。

  ちなみに、奇勝隊は僧侶を集めた義勇軍だったそうです。







■戸ノ口原古戦場
  白虎隊士中二番隊が新政府軍と戦闘した地。
  周辺には会津軍戦死者の墓が散在しています。

  十六橋を突破した新政府軍は8月22日夜には戸ノ口原に進出。
  会津軍は主要街道に主力部隊を派遣していたため、
  白虎隊などの予備部隊を出陣させ、
  敗残兵とともに新政府軍を迎撃しました。

  8月23日午前5時頃、台風による大雨の中、戦闘開始。
  しかし、圧倒的な兵力と優れた性能の武器を持つ新政府軍と
  ヤーゲル銃・火縄銃・槍などで戦う会津軍では勝負にならず、
  会津軍は撤退を余儀なくされ、
  滝沢峠を若松方面へ敗走することになります。

  このとき本隊とはぐれた白虎隊士中二番隊20名は、
  鶴ヶ城を目指して戸ノ口堰洞穴を抜け、飯盛山に辿り着いたのです。


供養塔

  白虎隊が戦闘の際に潜伏したと
  推定される「新四郎堀」
当時は樹木が少なく
見晴らしが良かったとのこと
奮戦の地の案内板から
1kmくらい離れた場所にあります
木々に隠れてしまいそうな案内板



  続いて、名物の「饅頭の天ぷら」を食べるために「元祖清水屋」へ。


■元祖清水屋
  会津三大茶屋の一つ。
  100年以上の歴史を持つお店です。

  会津は周囲を全て山に囲まれた盆地で、
  車や電車がなかった昔は、
  どこへ出かけるにも険しい峠道を自分の足で歩く必要がありました。
  そんな峠道や城下街の出入り口には必ず「茶屋」があり、
  その茶屋には必ず名物の逸品がありました。

  ここ強清水(こわしみず)にある元祖清水屋の名物が「饅頭の天ぷら」。
  もともと会津地方では、仏壇に供えられて硬くなった饅頭を
  天ぷらにして食べる習慣があったそうです。
  それを店でも出すようにしたようです。

  そのまま食べてもおいしかったのですが、
  しょう油を付けて食べるとさらにおいしいらしいです。


  一息ついた後は旧国道の滝沢峠を通って、若松城下へ。
  途中、大河ドラマ「八重の桜」のオープニングに出てきた
  「石部桜」が眼下に見えました。
  当然、花は咲いていませんでしたが・・・


  饅頭の天ぷら

■甲賀町口郭門跡
  安土桃山時代の会津領主・蒲生氏郷は若松の町割りを行い、
  城下町を武士の住む郭内と町人の住む郭外とに分け、
  郭内と郭外の間は深い濠と土塁、16の郭門によって仕切られました。
  甲賀町口の石垣はただ1つ残る郭門の一部です。

  慶応4年(1868年)8月23日、
  戸ノ口原の戦いを制した新政府軍は、滝沢峠を通り、
  午前10時頃、若松城下へ突入しました。
  城下に新政府軍が入ると、
  会津軍はすべての郭門を閉じて守備隊を配置。
  このとき、主力部隊のほとんどが国境周辺に配備されていたため、
  城下にはわずかな兵が残っているだけでした。

  甲賀町口郭門は、城の正門への道が続いていたため、
  中村半次郎・小笠原謙吉率いる薩摩・土佐の精鋭部隊は
  この門目指して真っ先に攻め込んできました。
  家老・田中土佐率いる会津軍守備隊は必死に応戦しますが、
  家老・神保内蔵助が守っていた東隣の六日町口から新政府軍が進入、
  甲賀町口が破られてしまいました。
  指揮にあたった田中土佐と神保内蔵助は、
  この責任を取り、刺し違えて自刃。
  甲賀町口郭門の戦いは、戊辰戦争激戦地の一つとなりました。

  8月24日・25日にかけて、国境周辺の藩兵は続々と帰城を果たし、
  防御力も充実、やがてこの郭門を新政府軍より奪い返し、
  9月23日の落城の日まで会津軍によって守り通されました。

  門の内側



  いよいよ鶴ヶ城へ。
  まちの駅鶴ヶ城(鶴ヶ城会館)に車を停め、
  お土産物を見てから攻め込みます。


■鶴ヶ城(若松城)
  国指定史跡。
  至徳元年(1384年)、葦名直盛が築いた「東黒川館」が発祥。
  後に葦名盛氏が改築し、現在の城郭の原型を築きました。
  当時の名前は「黒川城」でした。

  天正18年(1590年)、蒲生氏郷が入封、
  黒川城を7層黒塗り(推定)の天守を持つ城へ大改修、
  「鶴ヶ城」と改称して城下を若松と名付けました。

  寛永16年(1639年)には、加藤明成が西出丸と北出丸を増築し、
  現在と同じ5層白塗りの天守になります。
  その後、保科正之が入封した際、
  雪国でも割れにくい赤瓦へと葺き替えられました。

  慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、
  藩主・松平容保公含む会津軍が籠城、
  新政府軍が包囲して新型のアームストロング砲をはじめとした
  新型兵器で猛攻を加えますが、
  約1ヶ月間持ちこたえ、遂に落城せぬまま開城(降伏)の日を迎えます。

  鶴ヶ城は約1ヶ月に及ぶ激しい攻防戦に耐え抜いた名城として、
  その名を天下に知らしめることになりました。

  しかし、明治7年(1874年)、廃城令により、
  その天下の名城もすべて解体されてしまいました。
  御三階と呼ばれる、かつて本丸にあった楼閣風の建築のみが、
  鶴ヶ城唯一の遺構として阿弥陀寺に残っています。

  現在の天守は昭和40年に鉄筋コンクリートで復元されたものです。
  その後、平成13年には天守に続く南走長屋と干飯櫓が復元、
  平成23年には戊辰戦争当時の赤瓦に葺き替えられました。


  大腰掛
  階段状になっていて、上から敵を迎え撃つ
  北出丸追手門
椿坂
北出丸から本丸へと通じる城への玄関口
この坂を制するものが城を制する
と言われるほど重要な坂でした
太鼓門
藩士の登城や非常事態の合図に使用する
大太鼓を設置したことから名付けられました

  遊女石
  美しい遊女を乗せることで
  男たちのモチベーションを上げ
  この大きな石を運びました
武者走り
太鼓門の渡り櫓などへ簡単に昇り降りが
できるようにV字型に造られています
向かって左側が「昇り」、右側が「降り」

鐘撞堂
ここに時守を置いて鐘を撞いて
時刻を知らせていました


  天守台と天守
鉄門
扉や柱が黒い鉄板で覆われている門
頑丈な造りで大砲の死角であったことから
藩主・容保公はここで指揮を執りました

干飯櫓
城内11の櫓のうち一番大きかった櫓
食糧の貯蔵庫として使われていました

南走長屋
本丸への敵の侵入を防ぐ役目を果たし
城兵が走って行き来することができました

  鉄門・走長屋・天守
本丸
(天守最上階より)
飯盛山方向を望む
(天守最上階より)

白虎隊自刃の地です
  小田山方向を望む
  (天守最上階より)

  新政府軍の砲台がありました
荒城の月碑
土井晩翠は鶴ヶ城と仙台の青葉城を
モチーフにして「荒城の月」を作詞しました
  月見櫓跡
  ここから眺める月が美しかったことから
  この名が付けられました
茶壷櫓跡
多数の茶器類が収められていたことから
この名が付けられました
高石垣(扇の勾配)と廊下橋
高さ約20mの石垣で
「忍者落とし」と呼ばれています
  茶室麟閣
  千利休の子である少庵が
  建てたと言われている茶室
  改修工事のため中には入れませんでした
天守


  本丸埋門
  蒲生氏郷の築城当時は表門でしたが
  加藤明成による改築後は裏門となりました
萱野国老殉節碑
戊辰戦争の責任を負って切腹した
会津藩家老・萱野権兵衛の供養碑
廊下橋と廊下橋門
葦名氏時代は屋根のついた
廊下造りの橋でした
秋月悌次郎詩碑
三の丸の県立博物館そばにあります
会津藩の減刑嘆願の使者となった際に
詠んだ「北越潜行之詩」が刻まれています
八重之像
秋月悌次郎詩碑の隣にあります
新島(山本)八重は戊辰戦争の際
銃を手に鶴ヶ城で奮戦しました


  続いて、鶴ヶ城周辺を観光しました。


■神保内蔵助邸跡
  現在は会津若松市歴史資料センター「まなべこ」になっています。

  会津藩家老。家禄は1200石。
  文久2年(1862年)、藩主・容保公が京都守護職を拝命すると
  御家老組陣将として上洛。
  元治元年(1864年)の禁門の変では、天王山に立て籠もっていた
  真木和泉らを攻撃して自決に追い込むなど戦功を立てました。

  戊辰戦争では六日町口を守備するも苦戦、突破されたため、
  甲賀町口守備の家老・田中土佐と刺し違えて自刃。享年52歳。

  長男の修理は秀才で容姿は閑雅。
  鳥羽伏見の戦いでは軍事奉行添役として指揮しましたが、
  旧幕府軍の軍備が新政府軍に比べて劣っていることを認識しており、
  また、朝敵となることを恐れたため、将軍・徳川慶喜公に恭順を進言。

  慶喜公や容保公は大坂から脱出しますが、
  これは修理が恭順を説いたためという意見が上がり、
  敗戦を招いた張本人との烙印が押されてしまいました。
  主戦派は修理に切腹を命じ、偽りの君命と知りながら自刃。
  享年34歳。




■田中土佐邸跡
  現在は会津若松市立第二中学校になっています。

  会津藩家老。
  家禄は2000石で、会津藩家老としてもトップクラスでした。
  藩主・容保公が京都守護職就任を命じられた際には、
  家老・西郷頼母と共に江戸に赴き、容保公に対して
  京都の情勢や出費負担の大きさを説いて反対しました。

  戊辰戦争では甲賀町口を守備しますが、
  新政府軍の猛攻を防ぐことができず、家老・神保内蔵助ともに自刃。
  享年49歳。


■萱野権兵衛邸跡
  現在は会津若松市埋蔵文化財管理センターや
  会津若松税務署になっています。

  会津藩家老。家禄は1500石。
  文武両道に秀で、一刀流溝口派の奥義を極めた剣豪でした。
  藩主・容保公が京都守護職任命で在京の間は、
  国家老として会津での内政の責任を担いました。

  戊辰戦争中は先頭に立って激務にあたり、
  鶴ヶ城が包囲された後は高久宿に布陣して、
  城内との連絡や糧食物資補給に勤めました。

  終戦後、藩主父子の助命嘆願に尽力しますが、
  新政府は父子の助命の代わりに戦争責任者の差出を求めます。
  田中土佐・神保内蔵助が既に切腹していたため、
  会津藩の罪を一身に背負い切腹。享年42歳。




■西郷頼母邸跡
  現在は会津若松警察署城前交番や一般の民家になっています。

  会津藩筆頭家老。家禄は1700石。
  家老・田中土佐と共に藩主・容保公に京都守護職辞退を進言、
  それが容保公の怒りを買い、家老職を解任されました。

  戊辰戦争が起こると家老職復帰を許され、
  白河口総督に任命されて新政府軍を迎撃します。
  しかし、「白河口の戦い」で敗れて会津へ退却、
  総督を解任されてしまいました。

  若松城に帰参した頼母は新政府軍への恭順を勧めましたが、
  主戦派は徹底抗戦を主張し、頼母を亡き者にしようとします。
  容保公はこれを案じ、越後口の萱野権兵衛への伝言役
  という口実を与えて長男とともに城から脱出させました。

  会津を脱出後は榎本武揚らと合流して箱館で新政府軍と交戦。
  旧幕府軍が降伏すると捕らえられ、館林藩に幽閉されます。
  赦免後は私塾の塾長や神職を務めるなどしました。
  
  新政府軍が会津城下に迫った際には、
  頼母の妻である千重子は家族ら21人を居間に集めて、
  足手まといにならないようにと辞世の句を残して
  一斉に自害するという悲劇が生まれました。


■内藤介右衛門邸跡
  現在は福島地方裁判所会津支部の敷地の一部になっており、
  当時の日本庭園の一部が白露庭として残っています。

  会津藩家老。家禄は2200石。
  禁門の変では唐門を守備、薩摩の援軍もあり長州軍を撃破しました。
  戊辰戦争では家老・西郷頼母が白河口総督を罷免されると
  代わりに白河口総督となりました。

  戦後は、斗南藩へ移住。藩の存続に尽力しますが、
  明治4年(1871年)、廃藩置県によって藩が消滅。
  多くの旧会津藩士たちは会津に戻りましたが、
  介右衛門はそのまま残留し、開拓や教育に生涯をかけました。



■会津戊辰戦争終結の地
  明治元年(1868年)9月22日午前10時、
  1ヶ月の籠城戦に耐えた鶴ヶ城に降伏の白旗が掲げられ、
  会津戊辰戦争は終結しました。
  天皇家に忠誠を尽くした会津が、
  逆賊の汚名を着せられての敗戦でした。

  同日正午、錦旗を擁した新政府軍の軍監・中村半次郎らを迎え、
  この場所で会津降伏式が行われました。
  甲賀町通りの路上には緋毛氈が敷かれ、
  容保公・喜徳公父子によって降伏の調印がなされました。

  式が終わると、会津藩士たちはこの日の無念を忘れぬために、
  その場に敷かれた緋毛氈を小片に切り刻み、
  おのおの懐中深く持ち帰ったといわれています。
  会津人の心の奥深くに刻まれることになりました。



■山川大蔵邸跡
  現在は駐車場になっています。

  戊辰戦争では日光口副総督に就任。
  板垣退助率いる新政府軍と一進一退の攻防を繰り広げ、
  日光口からの会津領突入を断念させました。

  新政府軍が会津城下に侵攻すると帰還命令が届きますが、
  城下は既に新政府軍に包囲されていました。
  大蔵は部隊の先頭に会津伝統芸能「彼岸獅子」を舞わせながら行軍。
  鶴ヶ城の城兵は味方だと気付いて砲撃を止めましたが、
  新政府軍は装備がバラバラの諸藩の部隊であり、
  自分の部隊以外のことをよく分かっていなかったため、
  何が起きているのか分からず、ただ見送るだけでした。
  こうして、大蔵の部隊は敵だと気付かれずに鶴ヶ城に入城、
  城内の士気が大いに高まったと言われています。

  終戦後は斗南藩に移住し、権大参事に就任。
  廃藩置県で斗南藩が消滅すると陸軍に出仕し、
  佐賀の乱や西南戦争で功績を残しました。

  弟・健次郎は白虎隊に加わり籠城戦を戦いました。
  終戦後は国費でアメリカに留学し、難関のエール大学に合格。
  帰国して東京帝国大学で物理学を教えた後、
  東京帝国大学・京都帝国大学などの総長を歴任しました。

  妹・咲子(大山捨松)も国費でアメリカに留学。
  アメリカの大学を卒業した初の日本人女性となりました。
  帰国後は旧薩摩藩士で鶴ヶ城への砲撃を指揮した大山巌と結婚。
  いわゆる鹿鳴館時代には社交界の中心として活躍し、
  「鹿鳴館の花」と呼ばれました。






■佐川官兵衛邸跡
  現在は会津若松市立第二中学校のグラウンドになっています。

  戊辰戦争では京都、大阪、越後口、会津と転戦しました。
  鳥羽伏見の戦いで薩長勢を迎え撃った際、
  その壮絶な抜刀斬り込みと血まみれた阿修羅のごとき形相から
  「鬼官兵衛」の異名が付き、薩長勢から恐れられました。

  籠城戦では、新政府軍が寝ている早朝に攻撃する作戦が立てられ、
  官兵衛は精鋭部隊の総督を命じられました。
  しかし、出撃の前夜に容保公から下賜された酒を飲みすぎた
  官兵衛は寝過ごしてしまい、
  出撃した際には敵は既に目覚めていたため、作戦は失敗。
  多数の指揮官や精鋭を失うこととなりました。(長命寺の戦い)

  終戦後は斗南藩に移住し、廃藩置県後は会津に帰郷。
  その後、東京の警視庁に奉職して一等大警部の職を得ました。

  西南戦争では警視隊の小隊長兼副指揮長として薩摩軍と戦いますが、
  熊本県阿蘇において銃弾を浴びて壮烈な戦死を遂げました。
  享年47歳。



■山本覚馬・新島八重生誕の地碑
  実際の生家はここから西へ50m離れたところに位置していました。

  覚馬は4歳で唐詩選の五言絶句を暗誦するなど、
  幼少から頭角を現し、藩校日新館で学びました。
  22歳で江戸に出て佐久間象山の塾で蘭学や近代兵学を学び、
  28歳で会津に戻って日新館の教授となりました。

  鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍に捕らわれましたが、
  幽閉中に口述筆記した「山本覚馬建白(通称、管見)」が認められ、
  終戦後は京都府顧問として迎えられました。
  覚馬は京都府知事・槇村正直の片腕として、
  工場や学校、病院の建設など、京都の近代化に貢献。
  また、義弟の新島襄と共に同志社英学校を設立しました。

  府顧問を免職後は第1回京都府会選挙で選出され、
  最初の府会議員の一人となり初代議長になります。
  府知事と対立して議員辞職してからは同志社を軸に活動しました。


  自由闊達、男勝りな少女時代を過ごした八重は、
  兄・覚馬から習った洋式砲術を得意とし、
  白虎隊には八重が指導した若者も入隊しました。
  戊辰戦争で鶴ヶ城に籠城した際には、
  新式のスペンサー銃を片手に勇ましく戦いました。
  その奮闘ぶりから
  「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれるようになりました。

  終戦後は1年ほどを米沢で過ごした後、兄を頼って京都に赴き、
  兄の元に出入りしていた準宣教師・新島襄と結婚。
  夫と兄と共に同志社英学校の設立に尽力しました。
  英語を学び、洋服を着こなし、女性教育者として活躍。
  男尊女卑の時代の中、男女平等を望み時代をリードする
  八重の生き方は、まさしく「ハンサム・ウーマン」でした。

  夫・新島襄の死後、日本赤十字社の社員となった八重は、
  日清・日露戦争時は篤志看護婦として従軍。
  その後もさまざまな形で社会福祉に尽力しました。
  その功績を称え「日本のナイチンゲール」と呼ばれます。
  これら働きが認められ、皇族以外の女性として初めて
  日本政府より勲六等宝冠章を授与されました。

  江戸、明治、大正、昭和と激動の時代を常に前向きに生き、
  昭和7年(1932年)、87歳で波乱万丈の生涯を閉じました。


  山本覚馬・新島八重生誕の地碑

  実際の生家跡は駐車場になっています









■日新館天文台跡
  藩校日新館は戊辰戦争の際に焼失しました。
  新政府軍に軍事利用されるのを防ぐため、
  会津軍自らが悲痛の思いで火矢を放ったためです。
  唯一現存しているのがこの天文台跡。

  日新館では選択制の授業の中に天文学がありました。
  会津では藩祖である保科正之が暦作りを命じたこともあり、
  天文学が盛んなところでした。
  会津藩では冬至の日に天文師範などが集まって
  次の年の天候を編んで藩に提出するのが通例だったため、
  日新館には天文台が備わっていました。
  天文台がある藩校は全国でも珍しかったそうです。



  本日の観光はこれにて終了。
  会津若松の奥座敷と呼ばれる東山温泉に向かいます。


■本日のお宿
  会津東山温泉の「いろりの宿 芦名」。
  昭和初期の建物で、
  館内は懐かしさを覚える昭和レトロな雰囲気。
  畳敷きの館内はスリッパなしで快適に過ごすことができます。
  客室は7つ。食事処には7つの囲炉裏があり、
  客室ごとに専用の囲炉裏が用意されます。
  温泉は源泉掛け流し。
  内湯と露天風呂を楽しむことができます。


  宿到着後は玄関を入った所の囲炉裏でお茶のおもてなし。
  古い建物ということでしたが、
  生花や民芸品などが飾られるなど、
  所々に細やかな気配りがされていて、
  古い感じは全くしませんでした。

  部屋に荷物を置いた後は温泉に直行。
  誰も入って来なかったので、
  貸切状態でのんびりできました。
■夕食
  会津の旬食材を使ったいろり会席。
  ほのかな炭の香りに包まれながらの食事は、
  ほっこりゆったりした気分になります。
  焼き物はすべて旅館の方が炭火で焼いて下さるので、
  焼きたてのアツアツ。
  焼いて下さっている間には会話も楽しめます。

  途中で名物の語り部の中川さんが登場。
  食事をしながら会津弁での様々な話を聞くことができました。
  とても楽しかったです。

  様々な料理がすべておいしくて大満足でした。
  地酒もおいしかったです。
  囲炉裏での食事

岩魚を焼いています

馬刺し
会津は馬刺しの本場です
渓流釣り名人大井さんの
天然岩魚
  手作り味噌の厚揚げ田楽

煮びたし

ミニトマトの酢漬け

  会津地鶏のつくね
  会津地鶏の卵を付けて食べます
天然マイタケとレンコンの天ぷら

会津の地酒
廣木酒造の「泉川」
  鯉の洗い

会津地鶏の炭火焼

手打ち十割そば

  デザート



旅程図へ

二日目へ

旅行記一覧に戻る