南九州旅行記 三日目(2012/09/14)


  温泉に入るために早めの起床。
  外はまだ暗く、有明の月が見えました。
  温泉から上がると、ちょうど日の出。

■朝食
  和洋ビュッフェ。
  旅館なので和食を選びました。
  さつま芋やさつま揚げが鹿児島らしいですね。






  指宿白水館を出発して、最初の観光地・長崎鼻を目指します。


■長崎鼻
  薩摩半島の最南端にある岬。
  突端には白亜の灯台が立ち、
  薩摩富士と呼ばれる開聞岳を望む絶好のビューポイント。
  指宿カルデラの外輪山の一角を成していて、
  一帯は火山岩で形成されています。

  開聞岳は、均整のとれた円錐形をした秀峰で、
  山頂からのなだらかな稜線がすばらしい。
  中学生の頃、地図帳できれいな同心円の等高線を見て、
  感動したのを覚えています。
  今回、実際に山を見ることにより、
  その美しさを実感することができました。


■龍宮神社
  浦島太郎伝説発祥の地である長崎鼻にある
  豊玉姫(乙姫様)を祀った神社。
  長崎鼻の遥か先には沖縄の島々があり、
  浦島太郎が行った龍宮城は、
  実は琉球城だという説もあるようです。
  この海岸一帯の砂浜には、
  今もたくさんのウミガメが産卵するために上陸することから、
  このような伝説が生まれたのかもしれません。


■薩摩長崎鼻灯台
  高さ:11m。光が届く距離:13.5海里(約25km)。光の強さ:8500カンデラ。
  初点灯は昭和32年。
  錦江湾に出入りする船舶や東シナ海を航行する船舶の道しるべとして
  重要な役割を果たしています。






  長崎鼻から開聞岳を望む

  龍宮神社 拝殿

薩摩長崎鼻灯台


長崎鼻突端


  ハイビスカスが咲いていました


■JR西大山駅
  JR指宿枕崎線にあるJR最南端の駅。
  昭和35年の開業以来長らく日本最南端の駅でしたが、
  平成15年の沖縄都市モノレール線(ゆいレール)開業に伴い、
  同線の赤嶺駅にその地位を明け渡しました。
  単式ホーム1面1線を有する無人駅で、
  1日に16本の列車が停車します。(平成24年9月現在)
  周りを畑で囲まれた静かな環境にあり、
  ここから眺める開聞岳のすばらしい景観が自慢です。





  駅前には幸せの黄色いポストがあります

■昼食
  「指宿市営唐船峡そうめん流し」へ。
  流しそうめんではありません。

  昭和37年、当時開聞町の助役・井上廣則氏が
  回転式そうめん流し器を考案。
  渓谷にそびえ立つ杉の大木群の根元から湧出する
  清涼な水(年間を通じて13℃)を利用する
  独特のそうめん流しを町の事業として開発しました。
  そうめん流し発祥の地です。

  「A定食」(そうめん、おにぎり、鱒塩焼、鯉こく、鯉あらい)と
  追加のそうめん一人前を注文。
  そうめん流し、とても楽しいです。
  めんつゆは甘めですが、食が進む感じ。
  「鯉こく」や「鯉のあらい」は臭みが全くなく、美味でした。



高速で回っています


  鯉こく
鯉あらい


鱒塩焼


  おにぎり


■池田湖
  約5500年前の火山活動により陥没して生まれたカルデラ湖。
  周囲15km、面積11km²、最大水深233mの九州最大の湖。
  体長2m、胴回り50cmの大うなぎが棲息していて、
  幻の怪獣「イッシー」の棲む湖としても有名です。
池田湖と開聞岳


イッシーのオブジェ
旅の駅 池田湖パラダイスにて


  大うなぎ
  旅の駅 池田湖パラダイスにて

■知覧特攻平和会館
  太平洋戦争末期、特攻という人類史上類を見ない作戦で、
  爆弾搭載の飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした
  陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を展示。
  知覧は沖縄への特攻基地が置かれた町で、
  飛行場跡にこの平和会館が建てられました。
  私たちは、特攻隊員たちや各地の戦場で戦死された
  多くの犠牲によって、今日の平和日本があることに感謝し、
  このような悲劇を生み出す戦争を絶対に起こしてはなりません。




■知覧武家屋敷庭園
  知覧は「薩摩の小京都」といわれ、
  生け垣と石垣が美しい武家屋敷と庭園が今も残っています。
  第十八代知覧領主・島津久峰時代の武士小路区割の名残りで、
  各屋敷が塁のように防衛障壁となるよう工夫されています。
  上郡地区の18.6万㎡が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、
  7庭園が国の名勝に指定されています。
  7つの庭園のうち、森重堅邸庭園のみが築山泉水式庭園で、
  他の6庭園は枯山水式庭園となっています。
   西郷恵一郎邸庭園

平山克己邸庭園

平山亮一邸庭園

  佐多美舟邸庭園

佐多民子邸庭園


佐多直忠邸庭園


  森重堅邸庭園


■ホタル館 富屋食堂
  多くの特攻隊員の面倒を見て、
  特攻の母として慕われた鳥濱トメさんの食堂を
  当時の場所に再現した資料館。
  トメさんの生涯、特攻隊員とのふれあいの写真や遺品、
  エピソードなどが展示されています。
  知覧を訪れる際には、特攻平和会館と合わせて、
  ぜひとも訪問してほしい施設です。


  これにて南薩摩エリアの観光は終わり。
  鹿児島市街に向かいます。


■西郷隆盛銅像
  没後50年を記念して、鹿児島市出身の彫刻家・安藤照が
  8年かけて制作、昭和12年に設置されました。
  東京・上野恩賜公園の銅像は着流しで愛犬ツンを連れていますが、
  こちらは軍服(陸軍大将の正装)です。

  西郷隆盛は維新の三傑の一人。
  文政10年(1828年)、
  薩摩藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれました。
  下級武士でしたが、
  第十一代薩摩藩主・島津斉彬公の目にとまり、庭方役に抜擢。
  軍賦役(軍司令官)に任命されてからは、
  坂本龍馬の仲立ちで、対立していた長州藩と薩長同盟を結び、
  倒幕運動の中心人物になりました。
  薩長の新政府軍は武力によって旧幕府軍を破ろうとしていましたが、
  新政府の代表として幕府側の勝海舟と話し合い、
  江戸城の無血開城を実現、江戸を戦禍から救いました。

  明治新政府では、参議として廃藩置県などの改革を進めましたが、
  征韓論で大久保利通らと意見が対立して政府を去りました。
  鹿児島に帰郷してからは、
  士族の教育・軍事訓練などを進める機関として私学校を設立。
  明治10年(1877年)、生徒たちが新政府に対して反乱を起こし、
  西南戦争が始まりました。
  西郷隆盛は総指揮官として戦いましたが、
  新政府軍に敗北し、城山で自決。
  享年51歳。


 




■小松帯刀像
  幻の宰相と呼ばれる小松帯刀。
  維新の十傑の一人。
  天保6年(1835年)、喜入領主・肝属兼善の三男として生まれ、
  20歳のとき吉利領主・小松清猷の養子となって小松帯刀と改名。
  子供の頃から学問や武芸にすぐれ、
  26歳で島津久光公に才能を見出されて側近となり、
  27歳で家老となって藩政改革に取り組みました。
  また、倒幕に向けて薩長同盟や王政復古、そして明治維新に尽力、
  新政府では参与などの要職につきましたが、34歳で亡くなりました。

  この小松帯刀像は、慶応3年(1867年)に、
  第十五代将軍・徳川慶喜公が二条城に諸大名を集めて、
  政治の権力を朝廷に返還(大政奉還)すべきがどうかを問うたとき、
  他藩にさきがけて署名したときの様子をイメージして
  造られたものです。


■鶴丸城跡
  鶴丸城は鹿児島城の別名。
  鹿児島県指定史跡。
  日本100名城にも選ばれています。
  鶴が翼を広げた形をしていたことが、名前の由来といわれています。

  慶長7年(1602年)、初代薩摩藩主・島津家久によって築城。
  「人をもって城と成す」という精神に基づいて作られた
  天守のない質素な屋形造りの城でした。

  藩内に郷を単位として113の外城を築き、
  それぞれ家臣に守らせて領内全体で防御を固めるという、
  全国でも類を見ない外城制度を整えていたため、
  堅固な造りの天守は必要なかったと考えられています。
  また、徳川家に対する配慮で天守を作らなかったという説もあります。
御楼門(大手門)跡を望む

枡形


  鬼門除けのために
  「隅欠き」という技法で
  石垣の角を切り欠いています

■私学校跡
  鹿児島県指定史跡。
  私学校は、明治7年(1874年)、西郷隆盛が
  鶴丸城の厩(うまや)跡に設立した士族中心の学校。
  旧近衛兵の銃隊学校と砲兵出身者による砲隊学校があり、
  これを本校として、城下に12、県下に136もの分校が設置されました。

  石塀にある無数のくぼみは、西南戦争の際に、
  新政府軍のすさまじい攻撃を受けた砲弾の痕です。
門と石塀だけが残っています

          無数の弾痕


■薩摩義士碑
  宝暦3年(1753年)、徳川幕府は薩摩藩に
  木曽川・揖斐川・長良川の治水工事を命じました。
  この宝暦治水は非常な難工事であり、
  約1,000人もの人員を動員して工費40万両を費やした末、
  1年3か月かけて完成。
  その間、幕府役人や地域住民との対立、悪疫の流行などで
  自刃、病死する者が続出。
  80余名の犠牲者が出ました。
  その供養墓塔として大正9年(1920年)に建立されたものです。



■天璋院像
  鶴丸城内にあります。
  天璋院は通称・篤姫。
  平成20年のNHK大河ドラマで一躍脚光を浴びました。

  天保6年(1835年)、今和泉家第五代当主・忠剛の長女として、
  現在の鹿児島市で誕生。
  安政3年(1856年)、徳川第十三代将軍・家定公と結婚。
  家定公が1年半後に亡くなったため、
  前将軍の妻として大奥を仕切りました。
  幕末の動乱期には、
  徳川家の存続と新政府軍の江戸城武力攻略の回避に
  尽力しました。


■西郷隆盛終焉の地
  鹿児島市指定記念物(史跡)。
  西南戦争末期、
  圧倒的な兵力と物資を誇る新政府軍に対し、
  薩摩軍は撤退を余儀なくされ、鹿児島に引き返して、
  鶴丸城背後にそびえる城山に本営を作りました。

  明治10年(1877年)9月24日、
  新政府軍が集中砲火を浴びせる中、
  覚悟を決めた西郷らは、「潔く前へ進んで死のう」と
  城山を下山し始めました。
  将兵たちが銃弾を受けて倒れていく中、
  ついに西郷も大腿部に被弾。
  西郷は「晋どん、もうここらでよか」と言い、
  別府晋介の介錯によってこの地に果てました。
  享年49歳。


■西郷隆盛洞窟
  鹿児島市指定記念物(史跡)。
  西南戦争の最終局面で、薩摩軍が立てこもり、
  西郷が最後の5日間を過ごした洞窟です。


■城山展望台
  城山山頂部の城山公園にある展望台。
  鹿児島市街や桜島、錦江湾を一望でき、
  天気の良い日には、霧島山系や開聞岳も望める
  絶好のビューポイントです。

  城山は鹿児島市街中心部に位置する標高108mの小高い山。
  西南戦争最後の激戦地であり、
  国の史跡および天然記念物に指定されています。

  錦江湾に浮かぶ桜島を望む風景が、
  ナポリ湾に望むベスビオ火山を有するナポリ市と
  よく似ていることから、
  鹿児島市は「東洋のナポリ」と呼ばれています。

  西郷隆盛洞窟

  城山展望台からの眺め

天文館方向
下には島津斉彬公を祀る
照国神社の大鳥居が見えます


開聞岳がかすかに見えます



  城山
  宿泊したレム鹿児島より翌朝撮影


  本日の行程は、これにて終了。
  本日の宿に向かいます。


■本日のお宿
  眠りをデザインするホテル「レム鹿児島」。
  「もっと、よい眠り」をコンセプトに、2011年10月に開業。
  南九州最大の商業集積地・天文館にあります。

  ベッドはレムと日本ベッドが共同開発したオリジナル。
  しっとりと包み込まれるような寝心地を実現。
  枕はレムオリジナルの「快眠機能枕」と
  ホテル初導入となる「クラウドコンフォートピロー」。

  マッサージチェアやレインシャワーも全室に完備。
  眠る時もくつろぐ時も、
  五感で感じる心地よさにこだわっています。


  モダン&スタイリッシュな客室



■夕食
  予約しておいた「正調さつま料理 熊襲亭」へ。
  郷土料理専門店として昭和41年に創業したお店で、
  きびなご、かごしま黒豚などの地元食材を味わうことができます。

  いろいろなものを食べるために、
  尊コースと帝コースをあらかじめ予約。
  銀色に輝く「きびなごの刺身」は、
  コリコリとした独特の食感で、まさに絶品。
  「さつま揚げ」は揚げたて。
  そのまま食べても、わさびを付けても美味でした。
  地鶏や黒豚などの肉類も文句なしのおいしさ。

  飲み物は、やはり芋焼酎。
  「島美人」と「三岳」をお湯割りで。

  薩摩料理や芋焼酎を堪能することができました。


突き出し

尊コースの前菜三種盛

  帝コースの前菜四種盛

きびなごの刺身
カツオのたたき

  さつま揚げ

さつま揚げ
地鶏のたたき

  黒豚のしゃぶしゃぶ

黒豚のとんこつ
別注の鶏ハム
黒豚生ハムがなかったので

店員さんオススメの品を注文

  赤米御飯

さつま汁
香の物
  デザート(芋ようかん)



旅程図へ

二日目へ   四日目へ

旅行記一覧に戻る