京都旅行記 二日目(2013/12/02)


■朝食
  ホテル1階「はなもみ」にて和洋食ビュッフェ。
  京都らしい「おばんざい」を中心とした料理と和食がメインですが、
  洋食も多数あり、バラエティー豊かなメニューとなっています。
  小鉢や器などにもこだわっており、彩がとても綺麗です。







  今日の観光は東福寺から。
  JR奈良線で京都駅から東福寺駅に向かいます。


■東福寺
  臨済宗東福寺派の大本山で、山号は慧日山。
  京都五山の一つ。

  摂政九条道家が高さ5丈(約15m)の釈迦像を安置する
  大寺院の建立を発願。
  嘉禎2年(1236年)より19年の歳月をかけて、
  建長7年(1255年)に七堂伽藍が完成しました。
  開山(初代住職)は聖一国師(円爾弁円)。

  「東福の伽藍面」とまでいわれ、
  京都最大の大伽羅は壮観を極めましたが、
  度重なる兵火と明治14年(1881年)の失火で
  仏殿・法堂・庫裏などを焼失。
  以後、逐次再建されてきました。

  禅宗伽藍を代表する三門(国宝)をはじめ、
  浴室、東司(便所)、禅堂(いずれも国指定重要文化財)などは
  室町時代の建物が現存しており、
  当時の禅僧の生活を知る上で貴重なものとなっています。

  本堂と開山堂を結ぶ通天橋の一帯は洗玉澗と呼ばれる渓谷で、
  京都屈指の紅葉の名所となっており、
  秋の紅葉の時期には多くの人々で賑わいます。
  この洗玉澗を中心に境内には約2000本もの紅葉が植えられています。

  その中でも「通天紅葉」は、
  聖一国師が宋(現在の中国)から持ち帰ったもので、
  葉先が三つに分かれて黄金色に染まるという特長があります。
  臥雲橋より通天橋を望む

  禅堂(国指定重要文化財)
  貞和3年(1347年)再建

本堂(仏殿)
昭和9年(1934年)再建
昭和の木造建築では最大の建物


  通天橋より
  臥雲橋(京都府指定有形文化財)を望む
開山堂(国指定重要文化財)
文政6年(1823年)再建

普門院(国指定重要文化財)
文政9年(1826年)再建

愛染堂(国指定重要文化財)
室町時代前期建立


  南庭

通天橋
昭和36年(1961年)再建



北庭


  東庭
  紅葉めぐりはこれにて終了。
  これより幕末史跡探訪に移ります。


■二条城
  明治時代には離宮になったこともあることから、
  正式には「元離宮二条城」といいます。
  城跡全体が国の史跡に指定されているほか、
  二の丸御殿(6棟)が国宝、
  22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財、
  二の丸庭園が特別名勝に指定されています。
  平成6年には「古都京都の文化財」として
  ユネスコ世界文化遺産に登録されました。

  慶長8年(1603年)、徳川初代将軍・家康公が
  京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営。
  三代将軍・家光公が伏見城の遺構を移すなどして増築を行い、
  寛永3年(1626年)に現在の規模になりました。

  現存する二の丸御殿は6棟からなる武家風書院造。
  部屋の障壁画は狩野一門の名作。
  彫刻・飾り金具を含め桃山美術の粋を伝えています。
  本丸御殿は天明の大火(1788年)で焼失。
  現在の建物は京都御苑内にあった旧桂宮御殿を移築したものです。

  二条城は家康公が将軍宣下(征夷大将軍の任命)を受けた場所であり、
  十五代将軍・慶喜公が40藩の重臣に対して
  大政奉還を諮問した場所でもあります。
  大政奉還が発表された二の丸御殿大広間(一の間)では、
  その時の様子が人形で再現されています。
  東南隅櫓(国指定重要文化財)

  東大手門(国指定重要文化財)

唐門(国指定重要文化財)

唐門の彫刻・飾り金具

二の丸御殿(国宝)
車寄(手前)と遠侍(奥)


釣鐘
幕末の政変の時期、
二条城と北側の所司代との
連絡に使われたもの

  二の丸御殿(国宝)
  式台(左)と遠侍(右)


二の丸庭園(特別名勝)

  二の丸御殿(国宝)
  大広間
二の丸御殿(国宝)
黒書院
二の丸御殿(国宝)
白書院
  本丸櫓門(国指定重要文化財)

本丸御殿(国指定重要文化財)
御常御殿


本丸御殿(国指定重要文化財)
玄関


  北大手門(国指定重要文化財)



■京都所司代上屋敷跡
  所司代の名称・役職は室町幕府の侍所にはじまり、
  徳川幕府に受け継がれました。
  徳川時代の所司代は関ケ原合戦の直後に設けられ、
  皇室・公家の監視、京都諸役人の統率、京都町方の取締り、
  近畿八か国の訴訟処理、西国33か国の大名の動静監視など
  強い権限を持つもので、幕府の老中に次ぐ最重要役職でした。

  幕末の混乱期には所司代のみでは対応できず、
  京都守護職が上位機関として設けられました。
  最後の所司代となったのが桑名藩主・松平定敬公であり、
  守護職に任じられたのが定敬公の実兄である
  会津藩主・松平容保公でした。

  所司代屋敷は二条城北一帯の広大な敷地を持ち、
  上屋敷・中屋敷(堀川屋敷)・下屋敷(千本屋敷)・新屋敷で
  構成されていました。
  上屋敷跡は大半が旧待賢小学校(廃校)用地となっています。
京都所司代上屋敷跡
(旧待賢小学校)


       京都守護職上屋敷跡
          (京都府庁)


■京都守護職上屋敷跡
  幕末、京都の治安維持は京都所司代や京都奉行所が
  担当していましたが、尊皇攘夷運動が激化するにつれ、
  日本各地から多くの浪人が京都に流れ込んで、
  乱暴狼藉を働いたり暗殺が横行するなど治安が極度に悪化しました。

  これに対処するため、文久2年(1862年)、
  京都所司代・京都町奉行の上位機関として京都守護職が設置され、
  会津藩主・松平容保公が就任しました。
  しかし、所司代・町奉行・会津藩兵だけでは手薄のため、
  会津藩預かりという形で新選組を傘下に組み入れました。

  京都守護職は市中に数か所の広大な屋敷を構えました。
  その一つで現在の京都府庁がある敷地には上屋敷がありました。
  規模は現在の敷地ほぼすべてを占め、正門や敷石、玄関等は
  たいへん豪華なものだったといわれています。


■蛤御門
  京都御苑に九つある御門のひとつ。
  門の形状は高麗門型の筋鉄門。
  かつては新在家御門と呼ばれ常に閉ざされていましたが、
  天明の大火(1788年)の際に初めて開門。
  「焼けて口開く蛤」にたとえて「蛤御門」と呼ばれるようになり、
  以降はこの名称が正式なものとなりました。

  文久3年(1863年)の政変(八月十八日の政変)により
  京都を追放された長州藩は、
  事態打開のために京都に乗り込もうとする進発論と
  慎重な姿勢を取るべきという持重論に藩論が分かれていました。

  このような状況のもと、池田屋事件が起こり、
  多数の有能な志士が新選組に殺されたため、
  進発論が藩論を制することとなりました。

  元治元年(1864年)、三家老が挙兵して上洛、
  京都周辺に布陣して失地回復の嘆願を出しましたが、
  幕府側はこれを受け入れず、
  会津藩・薩摩藩など御所警備の藩兵との間で
  激しい戦いが繰り広げられることになりました。(禁門の変)

  この戦いは、蛤御門の周辺が最大の激戦地となったため、
  蛤御門の変とも呼ばれます。


■昼食
  木屋町通りに面した本格割烹料理店「あと村」。
  春は鯛、夏は鱧、秋は松茸、冬にはふぐ・蟹など、
  四季折々の素材を生かした京料理を味わうことができます。

  お昼限定の「籠盛り弁当」を注文。
  だし巻きや鴨ロース、海老の旨煮のほか、
  旬の野菜を使った料理がぎっしり詰まった豪華な逸品。
  見た目がかわいらしく、食べるのがもったいないくらいでした。
  とてもおいしかったです。



籠盛り弁当

お造り

  吸い物

シャーベット


窓の外は鴨川


  鴨川にはカモがよく似合う!?


■坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡)

  明治維新の功労者である土佐藩海援隊隊長・坂本龍馬が
  盟友の陸援隊隊長・中岡慎太郎とともに刺客に暗殺された
  近江屋(醤油商)があったところ。

  龍馬は海援隊の本部があった酢屋(材木商)に下宿していましたが、
  寺田屋事件(慶応2年(1866年))により幕府から狙われていたため、
  土佐藩の出入商人であった近江屋に移っていました。

  慶応3年(1867年)11月15日夕刻、中岡が近江屋を訪ね、
  大政奉還後の政局について論じていましたが、
  夜になり、十津川郷士と称する男たちによる襲撃を受けました。
  龍馬はその場で絶命し、中岡も二日後にこの世を去りました。
  龍馬33歳、中岡30歳。
  実に大政奉還(10月14日)が行われた1か月後、
  王政復古の大号令(12月9日)が出る1か月前の出来事でした。
坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地
回転寿司店のオープンに向けて
工事の真っ最中でした


土佐稲荷

■土佐稲荷(岬神社)
  室町時代初期、鴨川の中洲の岬に祠を建てたのが始まり。
  江戸時代初期には、この付近に建てられた土佐藩邸内に
  遷されました。

  藩邸内になったものの、
  参拝する町人のために通り抜けが許されていたといわれ、
  土佐藩士だけではなく近隣の人々の信仰も厚かったそうです。
  坂本龍馬や中岡慎太郎らも参拝していたと考えられています。

  その後、明治維新で藩邸が売却されたため、
  明治20年(1887年)に現在の地に遷座されました。
  龍馬像

■土佐藩邸跡
  江戸初期から明治4年(1871年)まで土佐藩邸があったところ。
  藩邸は藩の京都連絡事務所で、留守居役が詰め、
  町人の御用掛を指定して各種の連絡事務にあたっていました。

  坂本龍馬が藩主・山内容堂公から脱藩の罪を許された際、
  この藩邸で7日間の謹慎を命ぜられました。
  龍馬は上士の役人ばかりの藩邸を嫌がり、
  その後はほとんど滞在することがなかったといわれています。
土佐藩邸跡(旧立誠小学校)


坂本龍馬寓居之趾(酢屋)


■坂本龍馬寓居之趾
  坂本龍馬は材木商の酢屋に海援隊の屯所を置き、
  自らの宿舎としていました。
  酢屋の前は高瀬舟が出入りする高瀬川の舟入で、
  川沿いには各藩の藩邸が建ち並び、
  各藩との折衝や伏見・大阪との連絡にも格好の地でした。

  龍馬は二階の表西側の部屋に住み込み、
  二階の出格子から向かいの舟入に向けて
  ピストルの試し撃ちをしていたといわれています。

■池田屋騒動之址
  元治元年(1864年)に勤皇派志士たちが新選組に襲撃された
  池田屋騒動(池田屋事件)が発生した旅籠跡。
  騒動後も別の経営者が100年近く旅館として営業を続け、
  昭和35年頃まで当時の建物が残っていましたが、
  その後取り壊され、現在は同名を掲げた居酒屋となっています。

  前年の八月十八日の政変により勤皇派は失脚し、
  朝廷では公武合体派が主流となっていました。
  挽回を狙う長州藩を中心とした勤皇派は、
  御所に火を放ち、その混乱に乗じて一橋慶喜公らを暗殺し、
  孝明天皇を長州に連れ去るというクーデターを計画しました。
  しかし、この計画は武器を調達していた志士が新選組に捕まり、
  拷問の末に自白したことから露見することとなりました。

  新選組は、クーデターを協議する会合が
  池田屋か四国屋において行われることを突き止め、
  池田屋には近藤隊、四国屋には土方隊が乗り込みました。
  そして、池田屋にて勤皇派志士20数名を発見、
  激しい戦闘が始まりました。
  途中から土方隊も合流して戦局は新選組に有利に傾きましたが、
  双方とも多くの死傷者を出しました。

  御所焼き討ちの計画を未然に防ぐ事に成功した新選組は、
  この騒動により、その名を天下に轟かせることになりました。


■武市瑞山先生寓居之跡
  土佐勤王党を結成した土佐藩士・武市瑞山が
  京都滞在時に住んでいた料亭・四国屋丹虎の跡。
  現在は料理旅館となっており、武市ゆかりの間が現存しています。

  武市は文久2年(1862年)、藩主・山内豊範公に従って上洛し、
  この地に住んで他藩応接役として長州藩の久坂玄瑞らと交流しつつ、
  三条実美や姉小路公知ら尊皇攘夷派公卿とも交際を深めました。
  翌年には京都留守居役となりますが、
  八月十八日の政変後、隠居の身でありながら藩政を掌握していた
  前藩主・山内容堂公が土佐勤王党弾圧に踏み切り、
  約1年9か月の投獄の後、切腹を命ぜられました。


■吉村寅太郎寓居之址
  尊王攘夷派の土佐藩士・吉村寅太郎が仮住まいをしていたところ。

  寅太郎は武市瑞山に師事し、土佐勤王党に加盟。
  文久2年(1862年)、脱藩して上洛しますが、
  寺田屋事件で捕縛され、土佐に送還、投獄されました。
  約8か月後に保釈されると再び上洛し、
  武市の居る四国屋丹虎の隣に居を構えました。
  文久3年(1863年)、侍従・中山忠光を擁して天誅組を結成し、
  討幕の兵を挙げますが、八月十八日の政変で情勢が一変し、
  蜂起後40日余りで戦死しました。




  
武市瑞山寓居跡と吉村寅太郎寓居跡は隣接しています





■佐久間象山寓居之址
  佐久間象山は信濃国松代藩士。
  蘭学や西洋兵学を学び、
  江戸では勝海舟や吉田松陰らに砲術を教えました。

  嘉永7年(1854年)、吉田松陰の密航事件に連座して投獄され、
  その後8年間、松代で蟄居しました。
  元治元年(1864年)3月、一橋慶喜公に招かれて上洛、
  公武合体論や開国論を説きました。
  同年5月、この地に移り住みますが、
  当時の京都は尊皇攘夷派志士の潜伏拠点となっており、
  「傲慢な西洋かぶれ」とレッテルを貼られた象山は、
  同年7月、騎馬で山階宮家より帰る途中に暗殺されました。
 
佐久間象山寓居之址
石碑は建物と看板に囲まれて
目立たないところにあります
 
  長州屋敷跡の石碑は
  御池通り側の柱?の陰にあります




長州屋敷跡
(京都ホテルオークラ)

■長州屋敷跡
  江戸時代に長州藩の藩邸が置かれたところで、
  幕末維新期の重要な政治的拠点でした。
  藩邸は南北2か所に分かれ、北側屋敷は間口70m・奥行56m、
  南側屋敷は間口54m・奥行14mに及びました。

  尊皇攘夷派の最大拠点で、長州藩士はもとより、
  京都で活動する全国の志士たちの司令部的存在でしたが、
  元治元年(1864年)の禁門の変で敗退。
  撤退時にこの藩邸を焼き払ったことが原因で、
  「どんどん焼け」と呼ばれる大火災が発生し、
  京都市中の民家や社寺などを焼き尽くす大惨事となりました。


  今回の観光はこれにて終了。
  一息つくために祇園にある甘味処「ぎをん小森」へ。
白川に架かる巽橋

  祇園での一コマ

■ぎをん小森
  祇園新橋の畔にある甘味処。
  元お茶屋だった町家の雰囲気をそのまま活かした甘味処で、
  休日には行列ができる人気店です。
  抹茶を使った甘味が豊富ですが、
  丹波大納言や吉野くずを使った甘味なども楽しめます。

  「小森あんみつ」と「わらびもちパフェ」を注文。
  ほどよい上品な甘味をお座敷の落ち着いた雰囲気で味わい、
  至高のひとときを楽しむことができました。
小森あんみつ


  わらびもちパフェ


  一息ついた後は花見小路通をぶらぶら歩き、
  河原町から阪急・地下鉄を乗り継いで京都駅に向かいました。
  京都駅と伊勢丹でお土産と夕食のお弁当を調達。


■帰着
  京都駅17:53発のぞみ42号に乗車。
  料亭「六盛」の「手まり寿司弁当」を食す。
  二段重ねのお弁当で、一段目は可愛らしい手まり寿司、
  二段目は京風のおかずが入っています。
  上品な味付けで、とてもおいしかったです。

  新横浜駅に19:54に到着。


■感想
  紅葉のピークは少し過ぎていましたが、十分に楽しむことができました。
  次回はピークの頃を狙って行きたいと思います。
  今回は紅葉めぐりと幕末史跡探訪のセットだったため、
  いつも通りの慌ただしい旅行でした。
  もう一泊できれば良かったのですが・・・
  でも、紅葉も幕末史跡も堪能できて、とても良かったです。



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