四国旅行記 一日目(2011/09/21)


■出発
  非常に強い台風15号(※)の接近により、旅行中止の危機。
  朝起きて、台風情報と飛行機の運航状況を確認。
  高知龍馬空港行きANA561便は「天候調査中」となっていましたが、
  到着時には既に台風は通過した後のはず。
  欠航は無いだろうと判断し、リムジンバスで羽田空港に向かいました。


  ※9月21日14時頃に浜松市に上陸、東海・関東・東北地方を縦断。
   上陸時の中心気圧は950hPaを下回り、
   東日本に上陸した台風としては戦後最大級の勢力。
   帰宅ラッシュ時に台風が上陸したため、
   関東地方では公共交通機関が軒並み運休となり、
   多くの帰宅困難者が発生したあの台風です。


  羽田空港に到着し、運航状況を確認。
  とりあえず運航する模様。
  しかし、機種がボーイング767-300からエアバスA320に変更、
  搭乗口も空港内バス利用に変更になっていました。

  羽田空港を7:50定刻に出発。搭乗率は70%くらい。
  台風を迂回したためか、ほとんど揺れませんでした。
  途中、「まっぷる」を見ていると、キャビンアテンダントの方が
  「ご旅行ですか?」と声をかけてくれたので、ちょっとだけ会話。

  5分遅れで9:20に高知龍馬空港に到着。
  風は強かったですが、既に晴れ間がのぞいていました。

  空港のレンタカーカウンターで受付し、ワゴン車に乗って営業所へ。
  今回のレンタカーは、マツダのデミオ。
  レンタカー屋のお兄さんに、
  「ホイールは傷だらけなので、傷が付いても大丈夫ですよ。
  無くなるとダメですが・・・」と言われ、笑ってしまいました。

  まずは、高知の中心部にある「ひろめ市場」へ。


  ANA561便

  高知龍馬空港では龍馬がお出迎え

 
■ひろめ市場
  平成10年10月18日にオープンした、
  多種多様な60以上の店舗が集まった施設。
  この一帯は、四代藩主・山内豊昌公に仕え、
  寛大で侍達の能力を活かすことに長けた
  名家老・深尾弘人蕃顕(ひろめしげあき)の屋敷跡。
  屋敷が消えた維新後も親しみを込めて「ひろめ屋敷」と
  呼ばれていたことから、その名が付けられました。

  市場の中は「お城下広場」や「龍馬通り」など7ブロックからなり、
  土佐料理をはじめ、和洋中・エスニックの多彩な飲食店のほか、
  鮮魚店や精肉店、土産物店、雑貨・洋服屋などがずらりと並んでいます。
  至る所にテーブルと椅子が並べられていて、
  自分の好きなものを好きなお店で買ってきて、
  持ち寄って食べる屋台村のイメージです。
  食事後は、食器をまとめておけばスタッフがすべて回収してくれます。

  10時20分頃にひろめ市場に到着。さすがにまだガラガラです。
  市場内をぶらついて土産物や昼食の食材を物色。
  芋けんぴ、ゆずドリンクなどを購入。
  昼食にはまだ早いので、近隣の史跡を散策することに。


■武市瑞山殉節之地
  土佐藩の白札郷士・武市瑞山(通称:半平太)が切腹した
  南会所(藩の役所)跡。

  瑞山は優れた剣術家であり、坂本龍馬とは遠縁にあたります。
  尊皇攘夷論を唱え、文久元年(1861年)、
  郷士を中心とした土佐勤王党を結成。
  佐幕派の多い土佐藩を勤皇へ藩論転換させるべく奔走しました。

  土佐勤王党は一時期栄華を誇りますが、
  文久3年(1863年)8月の京都政変後、
  十五代藩主・山内容堂公は土佐勤王党弾圧に踏み切り、
  瑞山は南会所の揚屋(武士の牢屋)に収容されました。

  1年9か月の獄中闘争の後、藩庁は、
  容堂公に対して至誠を以て忠諌を試みたことを
  不敬行為として処刑することに決定。
  慶応元年(1865年)閏5月11日、
  ここ南会所の庭で三文字腹という切腹の作法を見事に行い、
  絶命しました。


■吉田東洋記念之地
  土佐藩参政・吉田東洋が、土佐勤王党の志士たちに暗殺された地。

  東洋は学才に優れ、郡奉行・船奉行を経て、
  山内容堂公に抜擢されて参政の職に就き、
  強力に藩政改革を主導しました。
  一時免職となりますが、その間に鶴田塾(少林塾)を開き、
  後藤象二郎・板垣退助・岩崎弥太郎らを教えました。

  藩政に復帰後、法律書「海南政典」を定め、
  殖産興業・軍制改革・開国貿易など、富国強兵を目的とした改革を遂行。
  容堂公と同じく公武合体を堅持したため、
  文久2年(1862年)4月8日、尊皇攘夷を主張する武市瑞山率いる
  土佐勤王党の那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵の3人により、
  下城の途上に襲われ絶命しました。


■山内容堂公誕生之地
  土佐藩十五代藩主・山内豊信公は、隠居してから容堂と名乗りました。
  酒と詩をこよなく愛し、自らを「鯨海酔侯」と称していたそうです。

  土佐山内家の一門であった南屋敷山内家の当主・山内豊著の長男。
  石高1,500石の分家で、藩主の地位とは程遠いところにいましたが、
  十三代藩主・豊熈公、十四代藩主・豊惇公が相次いで急死、
  次の藩主候補であった豊惇公の実弟・豊範がわずか3歳だったため、
  急遽、豊範に代わる藩主として22歳で就任。

  黒船来航頃まではその才幹を発揮できませんでしたが、
  吉田東洋を起用して藩政改革を進めるようになると、
  雄藩の大名として四賢候の一人と称せられるまでになり、
  幕政にも積極的に口を挟んで幕政改革を訴えました。

  倒幕へと向かうなか、
  「船中八策」を龍馬より聞いていた後藤象二郎が、
  これらを自分の案として容堂公に進言。
  容堂公はこれを妙案と考え、
  十五代将軍・徳川慶喜公に大政奉還を建白しました。

  明治維新後は、内国事務総裁などに就任。
  晩年は東京で過ごし、46歳でその生涯を閉じました。


■昼食
  ひろめ市場に戻り昼食。

  藁焼きタタキ専門店「明神丸」にて、
  「鰹タタキ定食(塩・タレ盛り合わせ定食)」、
  「鰹のハランボ」、「鯨の竜田揚げ」を注文。
  「明神丸」は、近海鰹一本釣り漁船漁獲高において、
  2009年まで10年連続日本一を達成した明神丸を有する
  明神水産の直営店です。
  あと、珍味堂にて「鯨のタタキ」を購入。
  「お城下広場」にて食べます。

  鰹のタタキは、藁焼きの香りが良かったです。
  塩タタキは初めて食べましたが、とても美味でした。
  タレよりは塩のほうが良かったですね。
  ハランボは鰹の腹の部分で、鰹一本から一か所しか取れない、
  貴重な逸品です。
  脂が乗ってて、トロトロな食感でした。
  鯨も竜田揚げ・タタキともに、とてもおいしかったです。

  あと、「甘味処 ほてい茶屋」にて「いちじくジュース」が目に留まったので、
  珍しいと思い買ってみました。
  とても濃厚で甘かったですが、おいしかったです。


  藁焼きです

鰹タタキ定食(塩・タレ盛り合わせ定食)

手前がタレ、奥が塩

  鰹のハランボ

鯨の竜田揚げ


鯨のタタキ


  いちじくジュース


  腹ごしらえも終わり、高知市郊外に向けて車を走らせます。


■桂浜
  雄大な太平洋に面した白砂青松の浜辺で、高知を代表する名所の一つ。
  台風接近時にはテレビ中継されることが多い。
  北東端に上竜頭岬、南西端に下竜頭岬があり、
  その間に挟まれて弓形に砂浜が延びています。
  一帯は公園として整備されていて、
  桂浜水族館、土佐闘犬センター、坂本龍馬像などがあります。
  月の名所としても名高く、「♪月の名所は桂浜」と
  土佐民謡「よさこい節」にも唄われています。
  「日本三大名月の里」にも選ばれています。

  台風による高波のため、浜辺は立ち入り禁止になっていました・・・残念。

  龍馬像前に高知名物「アイスクリン」が売ってたので購入。
  アイスクリームとシャーベットの中間といった感じ。
  シャリシャリとした食感で、おいしかったです。


   下竜頭岬を望む





■坂本龍馬像
  桂浜の上竜頭岬の小高い丘の上にあります。
  和服姿に懐手をしてブーツという出で立ちで堂々と立ち、
  はるか太平洋の彼方を見つめています。
  像の高さは5.3m、台座を含めた総高は13.5m。
  地元の青年有志が募金活動を行い、昭和3年に建立。
  龍馬は海軍創始者だったため、
  龍馬像は戦時の金属供出を免れることができたそうです。
  毎年、龍馬の誕生日であり命日でもある11月15日を挟んで約2か月間、
  龍馬像の横に展望台が設置され、
  龍馬と同じ目線で太平洋を眺めることができます。

  ※龍馬の詳細については、下記の「坂本龍馬誕生地」を参照。
  後ろ姿


■坂本龍馬記念館
  太平洋を見下ろす高台に建つ、坂本龍馬をテーマにした博物館。
  平成3年開館。
  龍馬が書いた手紙や肖像写真、掛け軸、系譜など、
  龍馬に関する貴重な歴史資料が多数展示されています。
  暗殺された際に飛び散った血痕のついた
  屏風と掛け軸(いずれも複製)からは、
  龍馬と中岡慎太郎の壮絶な最期が伝わってきます。
  暗殺現場の京都・近江屋の実物大復元セットもあります。
  龍馬ファン必見の施設です。


  桂浜周辺の観光を終え、再び高知市中心部へ向かいます。


■リンベル
  高知名物「ぼうしパン」を初めて作った
  老舗のパン屋さん「永野旭堂本店」の小売店舗。
  カフェが併設されています。
  丸いパンにビスケット生地をかけて焼くメロンパンにヒントを得て、
  パンにカステラ生地をかけて焼いたところ、
  カステラ生地が丸いパンのまわりに広がって
  帽子のつばのようになったことから、この名がついたそうです。

  「ぼうしパン」を購入し、コーヒーを注文してイートインしました。
  ほんのりとした甘みで、おいしかったです。
  本体はふんわり、つばはサクサクで、二種類の食感が楽しめました。

           ぼうしパン

■高知城
  高知市のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に
  築かれた梯郭式平山城。別名、鷹城。
  現存十二天守の一つ。
  城跡は昭和34年に国の史跡に指定。
  日本100名城にも選定されています。
  明治6年(1873年)の廃城令や、太平洋戦争による空襲を逃れ、
  天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存、
  それらは昭和25年に国の重要文化財に指定されています。
  また、本丸の建物が完全に残る唯一の城として知られています。
  城内には山内一豊公と妻・千代(見性院)、板垣退助の銅像があります。

  慶長6年(1601年)、関ヶ原戦の功績により
  徳川家康から土佐一国を拝領した土佐藩初代藩主・山内一豊公が
  築城工事を開始。
  慶長8年(1603年)に本丸と二ノ丸が完成し、入城しました。
  3層6階の天守は、一豊公の前任地であった掛川城の天守を模したと
  いわれています。
  二代藩主・忠義公の時代に全城郭が完成。
  享保12年(1727年)、城下町の大火で追手門以外の城郭のほとんどを
  焼失してしまいましたが、城の復興が進められ、
  宝暦3年(1753年)に再建が完了しました。

  ちなみに、天守と追手門が揃って現存している城は3か所のみで、
  両方が1枚の写真に収まるのは、唯一、この高知城だけです。
 
 
  天守と追手門が1枚の写真に
  収まるのは高知城だけ

山内一豊公銅像

追手門(国指定重要文化財)

  追手門西南矢狭間塀(国指定重要文化財)

板垣退助銅像

石樋(いしどい)
雨の多い高知城独特の設備
  大河ドラマ「功名が辻」の主人公である
  山内一豊の妻・千代像
三ノ丸石垣

天守(国指定重要文化財)

  詰門(国指定重要文化財)

天守と懐徳館(本丸御殿)
(国指定重要文化財)
  廊下門(国指定重要文化財)

西多聞(国指定重要文化財)

物見窓
敵兵全体の動向を把握する窓
高知城のみに残っています
  天守最上階から見た
  西多聞・廊下門・東多聞・詰門

  (いずれも国指定重要文化財)
天守最上階から高知市街を望む

黒鉄門(国指定重要文化財)


■はりまや橋
  「♪土佐の高知のはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た」と
  よさこい節のフレーズにもなっている高知の名所。
  日本三大がっかり名所の一つとされています。

  江戸時代に、堀で隔てられていた豪商の播磨屋と櫃屋が、
  互いの往来のために架けた私設の橋が由来といわれています。
  当時は簡素な木造りの橋でした。
  その後、橋は時代とともに何度か架けかえられ、
  昭和33年には南国博覧会のため、朱色の欄干が登場。
  翌年、歌謡曲「南国土佐を後にして」 がヒットしたことで、
  同名の映画が創られてスクリーンに映し出されことで、
  全国的に知られるようになりました。

  1960年代に入ると堀川は埋め立てられ、
  橋の長さよりも幅の方が広い道路脇に
  橋の名残の赤い欄干が残るだけとなり、
  この地を訪れた人々をがっかりさせたということです。

  「がっかり名所」からの脱却を目指してか、
  平成10年、はりまや橋公園が整備されて川のせせらぎを再現、
  道路橋の隣に江戸時代のはりまや橋を再現した
  朱色の欄干の太鼓橋が架けられました。
  道路橋の赤い欄干は撤去され、現在は石の欄干になっています。

  道路橋が本来の「はりまや橋」、朱色の太鼓橋が観光用の「はりまや橋」
  といったところでしょうか・・・


■浜幸はりまや本店
  はりまや橋のすぐそばにあります。
  よさこい節にちなんだ土佐銘菓「かんざし」を販売。
  「純信」と「お馬」のほろ苦い恋物語を、
  ほんのり甘ずっぱい柚子の香りに託したお菓子です。
  白餡をマドレーヌ生地で包んで、
  銀紙に包んで焼いた和洋折衷のお菓子で、
  日本初の銀紙焼きのお菓子です。

  絶妙な甘さで、上品なお菓子でした。
   道路橋

 
  太鼓橋

  「ごめん」と謝りながら走る路面電車?
  「後免(ごめん)町」行きです
  はりまや橋電停にて








  かんざしが描かれています

■武市半平太邸跡及び道場跡
  武市瑞山(半平太)は嘉永2年(1849年)、
  長岡郡吹井村(現在は高知市)から妻の富子や祖母と共にここに転居。
  道場は、安政2年(1855年)年に
  門口6間、奥行4間(11×7.3m)のものを建て、
  午前は富子の叔父・島村寿之助が槍術、
  午後は瑞山が剣術を教えていました。
  この道場の門人は、中岡慎太郎、岡田以蔵ら勤王運動家など
  120名にのぼり、龍馬もここによく出入りしていたといわれています。
  実際に邸と道場のあった場所は、
  ここから約30m東の道路北側付近と推定されています。


■坂本龍馬誕生地
  上町病院の西隣に誕生地の碑が建っています。
  この碑は、昭和27年に当時の首相・吉田茂が揮毫したものを、
  昭和43年に「明治百年記念行事」の一環として
  高い台座を含めて整備されたものです。
  毎年、誕生日であり命日でもある11月15日には、
  この碑の前で龍馬誕生祭が行われます。

  坂本家は、明和7年(1770年)、
  商家の才谷屋が郷士株を譲り受けて郷士となり、
  そこから独立分家したもので、
  ここを中心に広大な敷地を有していたといわれています。
  下級武士で家格は低かったが、
  領知高は161石8斗4升と非常に裕福な家でした。

  龍馬は、天正6年(1835年)、郷士・坂本長兵衛の次男として誕生。
  幼少時には泣き虫の惰弱でしたが、日根野弁治道場で剣術を修行、
  嘉永6年(1853年)には江戸に出て、
  北辰一刀流・千葉定吉道場で剣術を磨き、
  「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられるなど、
  優れた剣術家となりました。

  文久元年(1861年)、攘夷派だった龍馬は、
  武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加。
  翌年、脱藩。
  江戸に出て異色の幕臣・勝海舟を訪問し、
  世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬は大いに感服、
  門人となり、攘夷論を捨て航海術を修業しました。
  神戸海軍操練所の設立に東奔西走、その塾頭に任命されますが、
  慶応元年(1865年)、海舟の突然の失脚により
  神戸海軍操練所が解散。
  同志を率いて長崎に商社「亀山社中」を設立し、
  通商航海業に乗り出しました。

  これを機に、倒幕のため薩長二藩を同盟させる運動に奔走、
  中岡慎太郎と協力して慶応2年(1866年)に薩長同盟を成立させました。
  その直後、京都伏見の寺田屋にて伏見奉行が襲撃、
  傷の治療のためにお龍と薩摩の霧島温泉に向かいました。
  (これが日本最初の新婚旅行とされています)

  慶応3年(1867年)1月、龍馬と土佐藩参政・後藤象二郎が会談、
  「亀山社中」は土佐藩の外郭組織となり、4月頃に「海援隊」と改称。
  同年6月、京都に向かう船中で、
  「大政奉還」「議会開設」などの新国家構想、
  いわゆる「船中八策」をまとめ、象二郎に提示。
  同年10月、これをもとに山内容堂公が
  将軍・徳川慶喜公に大政奉還を建白、
  朝廷に許可されて大政奉還は実現しました。

  その後も新政府の構想を練っていましたが、
  同年11月15日、京都の下宿・近江屋で中岡慎太郎と会談中、
  刺客に襲撃され、暗殺されてしまいました。
  33歳の生涯でした。


 
 
 



■近藤長次郎邸跡
  長次郎は、高知城下で餅菓子・饅頭屋の長男として誕生。
  はじめは苗字がなく、「饅頭屋長次郎」と呼ばれました。
  家業を手伝いながら学問や剣術を修業、
  河田小龍の門下となり、江戸に留学して儒学・洋学・砲術を学びました。

  文久3年(1863年)、その才能を容堂公に評価され、
  苗字帯刀を許されました。
  勝海舟のもとに入門し、神戸海軍操練所に入った後、
  海援隊の前身「亀山社中」に加わって周旋役として尽力しました。

  慶応元年(1865年)、
  長州藩のために軍艦・ユニオン号購入を斡旋して成功。
  その際、長州より得た報酬で、
  独断でイギリス留学を秘密裡に計画したことが発覚。
  その行為は亀山社中の盟約書に違反するものであったため、
  仲間たちより追及を受け、
  責任をとって慶応2年(1866年)1月14日に切腹しました。


■河田小龍塾跡
  鏡川に架かる月の瀬橋の北詰め西側辺りが小龍の塾跡とされています。
  小龍は絵師でしたが、儒学や蘭学を学ぶなど知識が広く、
  多くの門人が集まりました。
  ジョン万次郎の取り調べを行ったことから、
  当時のアメリカの発展ぶり(鉄道、蒸気船、選挙制度など)を知り、
  開国への思いを強くしました。
  龍馬は、安政元年(1854年)の秋頃、小龍と出会い、
  開国の必要性や外国に追いつくための方法などの意見を聞き、
  大いに感化されたといわれています。



■日根野道場跡
  小栗流の和術を主とした日根野弁治の道場で、
  鏡川沿いの築屋敷と呼ばれる場所にありました。
  日根野弁治は上士格でしたが、
  門下生は上士より郷士の方が多かったそうです。
  龍馬はここで14歳から19歳まで修業し、
  剣法や居合、槍、棒、薙刀、騎射、水泳、水馬などの武芸を身に付け、
  「小栗流和兵法事目録」を伝授されました。

  道場の正確な場所は分かっていませんが、
  周辺の屋敷は全て道より石垣を築き上げるなど趣ある街並みが残り、
  当時の光景を彷彿させるものがあります。


■鏡川
  第五代藩主・豊房公が「我が影を映すこと、鏡の如し」と、
  その清流を称えたことが名前の由来。
  龍馬の家の近所にあり、水練のためにこの川に出向いて、
  姉の「乙女」が泳げない龍馬をスパルタ教育で鍛え上げました。
  竹竿の先から垂らした縄で龍馬のふんどしを縛った状態で泳がせ、
  溺れそうになれば引き上げていたそうです。


■龍馬郵便局
  龍馬の生まれ育ったまちにある郵便局。
  以前は高知上町一郵便局という名称でしたが、
  平成11年8月9日に局名を改称。
  日本で唯一、実在人物の名前が付いた郵便局となりました。
  局内には、龍馬の資料が展示された常設スペースがあり、
  窓口で依頼すると龍馬の姿が描かれた風景印を
  押してもらうことができます。
        ポストの上にも龍馬
     桂浜の波と地球を組み合わせ、
     龍馬の偉大さを表現しています


■山内容堂公邸跡
  鷹匠公園付近に容堂公邸がありました。
  藩主の一門の屋敷は、追手邸・東邸・西邸・南邸などと称され、
  ここは南邸(南屋敷)にあたります。
  容堂公は、叔父の追手邸山内豊栄の家で生まれましたが、
  十二代藩主・豊資公の弟で容堂公の父・豊著がこの南邸を新築。
  6歳の頃にこの屋敷に移り、22歳で藩主になるまで暮らしました。


■旧山内家下屋敷長屋
  山内家の下屋敷(南屋敷)内に建てられた武家長屋。
  元治元年(1864年)、容堂公が家臣7人の屋敷地を召し上げて
  建設させました。
  屋敷の警護に就く多数の足軽が宿泊するためのものです。
  この種の本格的な武家長屋は全国的に少なく、
  昭和54年に国の重要文化財に指定されました。


■山内神社
  祭神は、初代藩主・一豊公とその夫人(見性院)、及び歴代藩主。
  明治4年(1871年)、土佐藩最後(十六代)の藩主で、
  初代知藩事となった豊範公が、
  三代・忠豊公から十四代・豊惇公までの霊を祀るために創建。
  昭和9年、十五代・豊信公(容堂公)、十六代・豊範公を祀る
  新社殿が造成されました。
  このとき、歴代藩主は初代・一豊公夫妻、二代・忠義公を祀る
  藤並神社(高知城内)に遷座。
  昭和20年、戦火により両神社とも焼失してしまいましたが、
  昭和45年に社殿を再建して藤並神社を合祀、現在に至ります。
 
  旧山内家下屋敷長屋



山内神社拝殿      境内にある山内容堂公銅像
      大好きだった酒を注いだ
     ギヤマンの杯を持っています



  本日の観光はこれにて終了。
  多くの名所・史跡を回りました。
  本日の宿に向かいます。


■本日のお宿
  「高知新阪急ホテル」。
  高知市中心部にあるハイグレードなシティリゾートホテル。
  高知城やひろめ市場も近く、
  観光・食事などに便利な好立地のホテルです。


  荷物を置いて、食事に向かいます。


■夕食その1
  高知の地鶏「土佐ジロー」を味わうために「土佐食人 こうじ家」へ。
  少人数だと、半個室の落ち着いた和の雰囲気で、
  ゆったりと食事を楽しむことができます。

  「土佐ジローのタタキ」、「土佐ジローの炭火焼き(モモ肉)」、
  「鯨と水菜の玉子とじ」、「土佐ジローの玉子かけご飯」を注文。
  タタキは、さっぱりしていて、少し甘みがある感じ。
  モモ肉の炭火焼きは、ちょっと歯ごたえがありましたが、
  鶏の旨味が感じられました。
  土佐ジローの卵黄は、
  箸で持ち上げることができるほどしっかりとした弾力。
  濃厚な味わいで、しょうゆを垂らさなくても、とてもおいしかったです。 
半個室のボックス席

お通し

  土佐ジローのタタキ

土佐ジローの炭火焼き(モモ肉)

  鯨と水菜の玉子とじ

土佐ジローの玉子かけご飯


■夕食その2
  こうじ家の食事は抑え気味にして、ひろめ市場へ。
  昼食で食べた塩タタキがおいしかったので、
  もう一度食べたいと思ったからです。

  「明神丸」で「鰹タタキ(塩)」、「吉照」で「ウツボ唐揚げ」を購入。
  あと、妻がどこからか「鯖寿司」を買ってきました。
  塩タタキは相変わらずおいしい。
  意外だったのが、ウツボ唐揚げ。
  フワフワした感じで、
  泳いでいる時のグロテスクな感じからは想像できない美味しさでした。
  鯖寿司も脂がのってて、とてもおいしかったです。
   鰹タタキ(塩)

ウツボ唐揚げ


            鯖寿司
  お腹が満たされたので、これにて退散。
  ライトアップされた高知城を見ながら、宿に帰りました。



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